高雅の生髪、臍緒、抜歯を板倉山の墓地に葬ったのは、輔政一人であったようです。
「かくてうからのひとりもまねかねばおのれひとりなきなきぞかへりける」
と書かれています。
「うから」とは親類縁者のことです。高雅の子紀一郎もその場にいなかったように思われます。勿論、母の喜智もだと思われます。誰にも知られない「おのれひとり」た淋しい葬儀だったと思われます。
この母喜智は、高雅の遭難から11年後の明治7年80歳で歿しています。洪庵も文久3年6月に死去しています。
その母喜智が、その後どのような思いで11年間を生きてきたが、その記録が残ってないので分かりませんが、本人にとって、いいことか悪いことかは分かりませんが、高雅の遺骨は最後まで生まれ故郷の宮内に帰ってくることはできなかったのです。
なお、明治の御代になって、高雅が企画した琵琶湖疎水計画が完成しますが、その姿を遺骨を京に残したために、その経緯を、直接、天国から眺めることができてかえってよかったのかも知れないと思っています。
「かくてうからのひとりもまねかねばおのれひとりなきなきぞかへりける」
と書かれています。
「うから」とは親類縁者のことです。高雅の子紀一郎もその場にいなかったように思われます。勿論、母の喜智もだと思われます。誰にも知られない「おのれひとり」た淋しい葬儀だったと思われます。
この母喜智は、高雅の遭難から11年後の明治7年80歳で歿しています。洪庵も文久3年6月に死去しています。
その母喜智が、その後どのような思いで11年間を生きてきたが、その記録が残ってないので分かりませんが、本人にとって、いいことか悪いことかは分かりませんが、高雅の遺骨は最後まで生まれ故郷の宮内に帰ってくることはできなかったのです。
なお、明治の御代になって、高雅が企画した琵琶湖疎水計画が完成しますが、その姿を遺骨を京に残したために、その経緯を、直接、天国から眺めることができてかえってよかったのかも知れないと思っています。