前に書いたので、ご記憶になられているお方があるかもしれませんが「薬屋大坂屋源介来る」と書いている緒方洪庵の「壬戌旅行日記」です。
この洪庵の日記は母「きやう」の米寿を祝うために帰郷したおりの日記なのです。これは高雅が暗殺される1年前の文久2年4月のことです。
この時、洪庵は足守で母の祝いを済ませてから宮内、倉敷を経て、さらに尾道から四国の足を延ばして、大阪に帰っています。
その倉敷で一泊しています(宿;浅田屋です)が、その宿に洪庵を訪ねたのが大阪屋源介です。
「夜分祝宴す」と、書かれています。
この大阪屋源介は児島郡木目村(玉野市)の石井家から迎えられた養子です。勤皇家として有名で、後に倉敷町長、窪屋郡長を歴任しています。道路の整備や水利事業を勧め、窮民救済、勧農など民政安定に努めて人望がありました。
この源介と藤井高雅とも深い付き合いがありました。洪庵を仲立ちにしたのかどうかは分かりませんが、もしかして勤皇の志士という結びつきがあったのかも知れませんが。
なお、この源介も、また、和歌もよくしています。
その内の珍しい一つをご紹介します。彼が81歳の時、岡山の後楽園に遊んだ時に読んだ歌です。
もろ人の いとたのしげに あそぶこそ
ひしりの御代に 逢へはなりけり
一般の人がこの園には入って楽しめるのも天皇の御代になったからこそだ、と云うぐらいの意味だと思います。
この洪庵の日記は母「きやう」の米寿を祝うために帰郷したおりの日記なのです。これは高雅が暗殺される1年前の文久2年4月のことです。
この時、洪庵は足守で母の祝いを済ませてから宮内、倉敷を経て、さらに尾道から四国の足を延ばして、大阪に帰っています。
その倉敷で一泊しています(宿;浅田屋です)が、その宿に洪庵を訪ねたのが大阪屋源介です。
「夜分祝宴す」と、書かれています。
この大阪屋源介は児島郡木目村(玉野市)の石井家から迎えられた養子です。勤皇家として有名で、後に倉敷町長、窪屋郡長を歴任しています。道路の整備や水利事業を勧め、窮民救済、勧農など民政安定に努めて人望がありました。
この源介と藤井高雅とも深い付き合いがありました。洪庵を仲立ちにしたのかどうかは分かりませんが、もしかして勤皇の志士という結びつきがあったのかも知れませんが。
なお、この源介も、また、和歌もよくしています。
その内の珍しい一つをご紹介します。彼が81歳の時、岡山の後楽園に遊んだ時に読んだ歌です。
もろ人の いとたのしげに あそぶこそ
ひしりの御代に 逢へはなりけり
一般の人がこの園には入って楽しめるのも天皇の御代になったからこそだ、と云うぐらいの意味だと思います。