私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

吉備って知っている  160 藤井高雅の遭難の後始末③

2009-05-17 12:24:30 | Weblog
 おもしろいことに、当時、吉備津神社への監督は、どうも倉敷の代官が差配していたのではないかと思われます。
 というのも、先にあげた「幽叟除帳」の書き付けの日付が7月の晦日になっていたのが、急遽、7月24日に変更された等を記した書類の提出先が全て倉敷の代官所宛てになっていることからも分かると思います。
 全国の寺社を支配していたのが江戸の寺社奉行で、吉備津神社もその例外ではなかったのです。
 その一つを示すものに、倉敷代官の手付手代の関口何某から紀一郎に宛てた書類も残っています。それによりますと、「上京して、父の遺骸を引き取り、復仇をしたら」というような内容が書かれています。

 この文章の中にある「復仇」というのは「仇打ち」のことです。おおっぴらに、私的な恨みを公の裁判によるのでなく、全く個人的な武力によって打ち払う「仇打ち」という方法を、幕府の出先機関から直接推奨されたのです。それが普通の社会通念であったのです。今の民主主義の社会から見ると、なんておぞましい、ばかげた社会制度だと思われるようなことが、いとも簡単に普通の庶民の生活の中に生きていたのです。これが徳川時代の社会正義を実現するための現実だった事の証拠なのです。絵や小説の中に見えることではなかったのです。公の手紙の中に堂々と書かれているのです。
 
 何回も言うようですが、日本の片田舎に、江戸時代の生の社会生活の様子を直接に伺い知ることができる資料が沢山吉備津には残っているのです。素晴らしい誇るべきことだと思いませんか。素晴らしい歴史的文化的遺産が数多くこの地に眠っているのです。
 今、これらを一堂に展示できたらなと思っています。知らない間にどこかに散逸したり、消えてしまったりするのではないかと心配もしています。