私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

雨寄晴好

2010-03-23 13:14:28 | Weblog
 箱根を過ぎて、備前藩の行列は、13日には三嶋から富士の裾野を通ります。

 “ 富士の根にかかりて過行に、隈もなく霽たり。此比稀なる空のけしきと里人のいへりける。此山はもろこしまでも名高く聞えけるとなん。住馴れし武蔵野にて見しは物にもあらず、直下に見れば足高山・しづはた山・三穂前・すそのの木立、猶高根の雪にしら雲さへ横たわり、いふにも尽ず。宋朝の蘇子膽、西湖にて雨寄晴好という題にて答把西湖比西施、淡粧濃抹両相宜と作しとや、此山ほどはあらじと覚ゆ。されば代々の人もめでて狂歌・大和歌つらねかヽる文、こヽらおほかり、はばかり多けれどむなしく見すごすも口惜し、且は都に着なば、夢にも見ざらん、人に語りも伝へんと、駒を留めて、たとふ紙に書きつく。

    家つとに まつや語らん 東路の 雲の中なる 富士のたかねを

 浮島が原を見やれば、磯に寄波しろきぬのをひきしくようなれば

    白妙の 衣さらすと 見ゆるまで 磯うつ波の うき島が原

 夜更けて清見かたを過るにいにし秋の今宵にかはらず、月いと明く侍りしに
 
 ・・・”

 と書き綴られています。

 これが〈カクノゴトク不学文盲短才モマタ珍シ〉とされた岡山藩主池田綱政侯の文章かとすら疑わずにはおられません。「宋朝の蘇子膽、西湖にて雨寄晴好という題にて答把西湖比西施、淡粧濃抹両相宜」は、芭蕉の“象潟や雨に西施がねむの花”の基の詩であったあの詩です。なお、「答」は「欲」の過ちではないかと思われますが???

 そんなことは兎も角として、此の藩主は、幕府の批判をしり目に、相当な教養を備えていたことには間違いありません。霽は「はれる」と読みます。旧暦十月晴れ渡って富士がきれいに見えたのでしょう、箱根の雨もよいが、また、晴れた富士の気色も何とも言えない情緒があるものだという気持ちをこめて綴ったのだろうと思われます、そこに直ぐ蘇軾の「飲湖上初晴後雨」の詩が浮かぶだけの相当に高い教養があったことは確かです。

 なお、浮島が原は東海道五十三次「原宿」にあり、街道一の眺めであるとも言われている所です。