「数馬よくせよ。助太刀はすまじきぞ。かなひがたくはかわらん」
と、荒木又衛門は言葉を掛けます。
それが継起となって、数馬は宿敵又五郎を討ち果たしております。
この鍵屋の辻の決闘は、誰も知らない又衛門一行と又五郎一行の戦いであったかのように思われていたのですが、実はそうではなかったのです。あらかじめその日の朝、そうです。寛永11年11月7日の朝です。そこでこの決闘を見ていた者がいたのです。数馬の親類で藤堂高次の士彦坂嘉兵衛と云う者が傍で見ていました。更に、多くの藤堂家の者がその場にいて、この決闘を見ていたと言うのです。
これも推測の域を出ないのですが、荒木又衛門は、あらかじめ、此の鍵屋の辻で仇打ちをするという事をこの彦崎に知らせていたのではないでしょうか。だからこそ、藤堂藩でも、密かにそ、此の両家の仇打ちの様子を探るべく、どのくらいに人数であったかは「常山紀談」には書いてないのですが、『上野の士あまた集まり』と記しています。
どうも、この戦いも、又、例の大名と旗本の対立の一つであったと云われています。
特に、数馬は岡山藩士であり、片や、河合又五郎は旗本とつながりがあり、初めからその援助を得ていました。そんな関係で、藤堂家では、「旗本にくし」と云うそれまでのいきさつから、岡山藩士である渡辺数馬に、偉く肩入れして、又五郎についての情報を流していたのは間違いありませんが、その辺の事情は常山は何も書いてはいません。この戦いは公平でないと思っていたのかもしれません。
又、彦崎嘉兵衛なる人物が、数馬の親類であったのだそうですが、そんなことが偶然にあったとしても、やはり、この戦いは、初めから数馬に有利に展開していたと思われます。そこら辺りの事を考え、常山は、又五郎の方にも、ある程度同情していたように思えるのですが?????
と、荒木又衛門は言葉を掛けます。
それが継起となって、数馬は宿敵又五郎を討ち果たしております。
この鍵屋の辻の決闘は、誰も知らない又衛門一行と又五郎一行の戦いであったかのように思われていたのですが、実はそうではなかったのです。あらかじめその日の朝、そうです。寛永11年11月7日の朝です。そこでこの決闘を見ていた者がいたのです。数馬の親類で藤堂高次の士彦坂嘉兵衛と云う者が傍で見ていました。更に、多くの藤堂家の者がその場にいて、この決闘を見ていたと言うのです。
これも推測の域を出ないのですが、荒木又衛門は、あらかじめ、此の鍵屋の辻で仇打ちをするという事をこの彦崎に知らせていたのではないでしょうか。だからこそ、藤堂藩でも、密かにそ、此の両家の仇打ちの様子を探るべく、どのくらいに人数であったかは「常山紀談」には書いてないのですが、『上野の士あまた集まり』と記しています。
どうも、この戦いも、又、例の大名と旗本の対立の一つであったと云われています。
特に、数馬は岡山藩士であり、片や、河合又五郎は旗本とつながりがあり、初めからその援助を得ていました。そんな関係で、藤堂家では、「旗本にくし」と云うそれまでのいきさつから、岡山藩士である渡辺数馬に、偉く肩入れして、又五郎についての情報を流していたのは間違いありませんが、その辺の事情は常山は何も書いてはいません。この戦いは公平でないと思っていたのかもしれません。
又、彦崎嘉兵衛なる人物が、数馬の親類であったのだそうですが、そんなことが偶然にあったとしても、やはり、この戦いは、初めから数馬に有利に展開していたと思われます。そこら辺りの事を考え、常山は、又五郎の方にも、ある程度同情していたように思えるのですが?????