私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

渡辺数馬報讐始末の事 15

2010-10-24 09:22:45 | Weblog
 伊賀の上野から、京の伏見にある因幡の屋敷に送られた数馬達ですが、たった100kmもない道のりに100名近い警護を付けたのです。改めてその物々しさが伺われます。
 さて、数馬達を伏見で受けたった因幡藩は、そのメンツからも、どのようにしてでも無事に二人を鳥取まで迎え入れなくてはなりません。その為の警護対策に、先の藤堂藩と同じような万全の体制を整えて迎え入れています。寛永16年8月の、日本における最も高い感心事ではなかったのでしょうか。
 その警護は、因幡の士横川治太夫親子鉄砲20挺、渡辺越中鉄砲20挺、伊吹源太兵衛親子鉄砲30挺、宮脇兵太左衛門弓10張、伊賀の者5人、片上弥二兵衛親子鉄砲20挺、松尾惣左衛門親子伊賀の者6人、福田横兵衛歩行(かち)の士20人、宮脇徳兵衛田中六郎右衛門その他弓の者20人が付いて因州に向ったのです。
 鉄砲が90挺、弓10張、忍者11人、その他警護の士が40人など、6、70人ぐらいの武士によって守られながら鳥取まで行っています。

これ又相当数の人数の警備であったことはお分かり頂けたと思います。さらに伏見からは陸路でなく川船で下り、瀬戸内海では岡山藩主池田光政侯のお船を使って、播州坂越に着いたのです。

 なお、此の坂越という街は現在赤穂市になっていますが、江戸時代には、尾道、牛窓の港と同じように、内海航路の中継地として廻船業で栄えた街です。その面影が現在でも、わずかに残っています。