私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

国民文化祭・おかやま2010 ①

2010-10-29 14:30:49 | Weblog
 今、岡山が面白いです。それは“第25回国民文化祭・おかやま2010”が開かれているからです。その面白い岡山を見に、まず、県立博物館を訪ねました。会場には、国宝や重文の作品が、河原の石ころのようにそこら辺りに転がるように展示してあります。驚きを隠せません。

 国宝が3点、国重文39(複製2)をはじめ美術品が100個ばかり並んでいま。大変珍しい、吉備の国に関係のあるものばかりでした。

 博物館に入って、まず、目に入るのが、ガラスケースに入った「突線流水文銅鐸」とその隣にあ「貨泉」です。我が町吉備津のお隣にある津寺・高塚遺跡からの出土品です。

 場内は、写真撮影禁止ですので、別の資料から撮ってきたこの流水文の図を見てください。
                  
 こんな紋様が付いたとても美しい銅鐸です。当然、これも国の重要文化財に指定されています。うっとりとその流れるような流水紋を暫らく眺めます。6列の紋様の付いたとても素敵な銅鐸でした。
 なお、私は、この銅鐸を最初に見つけた人のお話を聞いたことがあります。その人の話では、ジョレンか何かで土を取り除いていた時の事だそうです。すると、突然、なにか「カッチ」と音がしたと言うのです。よく見ると、そこに石か何か分からない何かが少しだけ土の中から覗いているものがあったのだそうです。大急ぎで、発掘調査員の先生に報告します。それが、この貴重な銅鐸を見つけた一番最初の出来事だったと言うのです。だから、この銅鐸をよくよく見ると、銅鐸の縁に出ている突起物の一つがやや壊れて小さくなっているのが見られます。それは、その時の発掘員がジョレンで引っかけて毀した跡なのだそうです。その小さな欠けた部分を見ると、その発見時の、その場にいた多くの人たちの、悲喜交々な想いが交差して伝わってくるようにも思えました。

 こんな想いの詰まった銅鐸の次のケースに納まったいるのが、「貨泉」です。
  

 これもこの銅鐸からわずか50mほど離れた所から25枚も見つかりました。この貨幣は中国の前漢を亡ぼした王奔と言う人が打ち立てた「新」と云う国の貨幣です。AD14~40年の間というごく短い期間に使われた貨幣です。こんなものが我が町近くから出土したのです。驚きです。どのような経過をたどったのか分かればいいのですが? 「弥生」と云う限られた日本と云う狭い地域に、もう、汎世界の歴史が入り込んでいたのです。
 ある学者の話ですと、「新」という国から日本に亡命してきた人たちが持っていたのではないかと考えられているそうです。吉備の国では弥生時代から多くの外国人が渡来して来ていた土地です。当然、新の国からやって来たと推測されても当然です。でも、当時の社会、弥生式時代です。この時代は、未だ、日本では貨幣を用いる程の高度な経済活動はなされていなかったはずです。まだ、物々交換の弥生の世界です。だから、当然、その当時の日本では貨幣なんて必要はありません。そこで考えられたのが、この新の国から持ち込んだ大量の「貨泉」は、本来の使用目的より違った、銅鐸を造るための原材料として用いられた可能性が大であるというのです。念の為ですが、最初に日本で貨幣が鋳造されたのは701年の和同開珎が最初でした。この貨泉の時代は、それよりも700年も前の話です。それを頭に入れてご覧頂くといいのですが。

 吉備の津であったこの土地で繁栄していた人々が、何のためにか、また、如何してかは、分からないのですが、とにかく、この「銅鐸」を何らかの方法で作って、その後、これも、どうしてかわ分からないのですが、土の中に意図的に埋めておいたのです。それが、偶然に、2000年の時間を経た1997年頃発見されたのです。
 この銅鐸を見ると、知らず知らず2000年も昔の世界に誘ってくれます。

 そんな古代吉備のロマンを、一度、是非ご覧ください。