私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

宣長へ

2012-12-13 18:36:21 | Weblog

 高尚の若林氏に宛てた書簡はまだ続きます。

 「此度多、古学者に逢申候へ共みな好所に我意をたてしゐたる論いふ人多御座候に此先生は人の論にも被附申、其論公にして真の古学者・真の神道者に御座候。感じ申候て此翁に随身仕候」
 と。
 
 この文章から伺われることは、高尚は宣長の日本の古典、古事記・日本書紀など、多くの研究について、その成果や取り組み方に、痛く感動したのだと思われます。他の日本古典の研究者は勝手に自論を一方的に強調し、それに反する説を強く排撃したのと比べ、宣長は、常に、人の論説に真正面から耳を傾け、正論には進んで賛同し、誤りには厳しく排除するという、真の公の学者だと褒めています。それだから、生涯の師として仰ぐ決意を、この時にしたのだと言っています。
 そんな高尚は宣長のもとで、あの鈴屋に何年居たのかは不明ですが、そのわずかな年数の間に、高尚は鈴屋のと云うより、宣長の四天王の一人として崇められたのですから、相当の実力を、当時、供えていたのだろうということが想像できます。

 なお、私が書いた高尚が「宣長の4天王」というのは、どうも、この吉備地方、それも私の町「吉備津」だけのいい加減な評価であるかもしれませんが、この書簡を見る限りでは、彼のお弟子さんたちの中にあって高尚が、彼をこよなく崇敬していたということはよく分かります。また、宣長の4天王と呼ばれても、決して、他にひけを取らないだけの業績も残していると思います。そうでなかったならば、高尚の著書≪消息文例≫の始書きに宣長の事がが乗る筈がありません。平田篤胤と並び称される様な業績は残しているのですが、当時、吉備津神社の神主として日本の中央、京や江戸から遠く離れた吉備津と云う片田舎に住んでいたという事が、彼の業績に比べ、彼の名声を全国的な地位にまで高める事が出来なかった大きな原因ではないかと、私は思うのですが????

 調べてみたのですが、宣長の師である賀茂真淵の「四天王」というのはあったのだそうですが、本居宣長の四天王と云うのはあったのかどうか不明です。