形通りの固めの杯を交わした荒木又衛門は、着ていた羽織を、その屋の主人に与え、何を思ったのか、その屋の庭に出て、刀を抜き、素振りを幾度となく繰り替えすのでした。
その辺りの様子を「常山紀談」には、次のように書いています。(原文のまま)
「庭に飛出てをどり上り上りしたる有様 すくやかなる(考えや行動かしっかりしている)男のけふを限りと思うけしきあらわれて、只鬼などもかくあらんと見えしと、人、後に語りけり」
あの又衛門でさえ仇打ち前夜はこのように、鬼のような様相で、何かしなくてはおられないような、落ち着かない切羽詰まった心理状態になっていたのです。唯、勇敢にでんと構えて、静かに、その時を待つと言う事はなかったのです。荒木又衛門も、やはり、人の子であったのです。講談なんかに出てくるのとは随分違った仇を討つ者の心理状況が映し出されています。
剣豪といえども、平常心を保つことが如何に難しいのか分かる一側面です。
一昨日、私は岡山県立美術館で「岡山・美の回廊」展に行ってきました。岡山が誇る剣豪宮本武蔵の描く絵も数点展示されていましたが、総ての彼の絵には、何ものをも圧倒するような凛とした圧迫感が感じられるように思われました。相手と対峙する前に感じたであろう「けふを限り」と思う緊張感が、その筆の中に漂っているようでした。
どうです、何者おも恐れはしないぞと云う「気迫」が画面いっぱいに漲っています。しかし、その影の中には、己を虚しゅうするような寂しさが感じられます。孤独なる人生かあります。人とは何であろうかという彼自身の問いかけがあります。
この荒木又衛門にも、武蔵と同じように、絵や書が有ったのかは知らないのですか、やはり、その緊張感は体験として自らの心の中にしっかりと、根付いていたはずです。武芸者は、総て、僧侶などの宗教家とは、また違った感覚が身に付いていたのではないでしょうか。
人とは一体何でしょうかね。秋の夜長をそんなふうに、荒木又衛門の仇打ちを書きながら、思いめぐらせてみました。
「11月6日に江戸に向けて出発する」
と云う情報を掴みます。ただちに、又五郎が潜んでいる家に夜討ちを掛けようとしたのですが、その家が商家でもあり、周りの家々に迷惑をかけてもと云う事になり、その道中で仇打ちをすベく、朝まで見張りを付けて仇打ちの用意をしていたのです。
いよいよ6日も朝になりました。河合家でも、相当注意していたのでしょう。まず、先頭は甚左衛門、又五郎、その後は柳井半兵衛(又五郎の妹婿〉、弓鉄砲態20人、行列が7、8町も続いたのだそうです。物々しい警護付きの護送でだたのです。又五郎は、その日伊賀の島が原と云う所に泊ります。又衛門たちは、この河合又五郎に気付かれないように、道なき裏山を踏み分けて、又五郎たちに気付かれては何にもなりません。山籠りして一夜を明かします。そして、上野小田町の小さき家を借りて。そこで、いよいよ明日に備えての最後の酒盛りをします。家の主人は「何も肴はありませんが」と、イワシが3匹しかなかったのでしょう、それを出します。数馬は、酒の値にと20両の金子をその家の亭主に渡します。その20両を見て驚き、その女房はかつをぶしを差し出します。
こんな荒木又衛門のあの有名な伊賀の上野の仇打ちの前夜の様子があったのです。イワシといい、20両の礼金といい、更に、宿した家と云っても貧しい山中の百姓家のでしょう。お頭付の肴など有ろう筈はありません。4人の最後の固めの杯になるかもしれない祝いの酒盛りです。でも、その家には、3匹のイワシしかなかったのです。20両と云う大金を見て亭主が驚いたことに間違いありません、それを察して、女房が慌ててかつをぶしを出します。ここら辺りの百姓の人の良さ、気の良さが伺われます。
たまたま、奈良の郡山に、姉婿の荒木又衛門が住んでおりました。その郡山に、偶然にも、仇河合又五郎の伯父河合甚左衛門がいました。その為、数馬は、その甚左衛門に又五郎の消息を訪ねて行こうと思い又衛門の家を尋ねます。しかし、又衛門は一人数馬を甚左衛門を尋ねさせるにはあまりにも危険過ぎるので、1年の間郡山にいて、又五郎の消息を密かに探らせます。数馬一人で仇打ちさせるには、あまりにも危なかしすぎるので、又衛門その助太刀をしようと思いたつのです。郡山藩に仕えていた又衛門は「義理の弟の仇打ちの助太刀をする」と、藩に暇乞いして、数馬と江戸に行きます。その江戸で色々な所を廻り、又五郎の消息を聞きだすのですが、行方が知れません。その江戸で、ある時、河合甚左衛門と会ったのですが、さんざん悪口を言われます。どうしても又五郎の行方が分からず、仕方なく、再び奈良に帰ります。その後、京、有馬等を尋ねて捜しますが、遥として河合又五郎の消息は掴めません。
この数馬に姉がありました。その姉の事についても詳しい事は分からないのですが、その夫があの荒木又衛門と云う事だけははっきりしています。
これも想像ですが、此の事件の発端となる弟荒木源太夫は、河合又五郎が横恋慕するぐらいの色男だったのですから、その姉は、当時相当な美女ったことにには間違いありません。その美女と岡山とがどう関わりがあったかは分からないのですが、その数馬の姉が又衛門と夫婦になって、その時は奈良の郡山に住んでいました。
ところがです。これも誠に偶然なことですが、河合又五郎の叔父も郡山に住んでいました。
これが、これから生まれる物語のきっかけになるのです。
「自分には与り知らぬ事ゆえ、知らん。そちらで、どうにでもしてくれ」
と、けんもほろろに断ります。
その間に、密かに、又五郎を江戸に逃げさせます。それを助けた人の名前も分かっています。安藤治左衛門と云う人だそうです。
そうこうしているうちに、藩主の池田忠雄が疱瘡を患い死に、その忠雄の従兄弟である阿波の松平忠英が藩主となって岡山に来ます。そして、寛永九年七月備前と因幡の国替えが行われ、池田光政が備前の藩主になります。
その間、数馬は、弟源太夫の仇打ちせんと、児島に於いて、仇、河合又五郎を探します。
そこら辺りの詳しい様子は何にも記されてはいません。
多分、岡山藩では藩主の死亡と云う火急の用件が勃発して、そんな藩士の仇打ちにかまけているような余裕はなかったと思います。しかし、当時の社会思想からして、数馬は、どうしても仇又五郎を討ちはてなくては、渡辺家の存続が危ぶまれるような危機に晒されていたのです。この数馬は、如何してかは分からないのですが、児島に引きこもって、懸命に、数馬は又五郎のその後の行方を捜すのです。しかし、ようとしてその消息は依然として知れませんでした。
あの渡辺数馬の事件について、「常山紀談」でも、取り上げてあります。
そもそもの事件の発端は、寛永七年七月二一日、岡山の城下の大手にて、をどりが興行されたことによります。その夜、数馬は、何の用事だっかはそれについては何も記されていませんが、兎に角、自分の家にはいませんでした。妻の父親津田の家に行っており、家には、数馬の弟源太夫がいたのだそうです。そこに河合又五郎が、これ又、何の用事かは、常山は書いてないのですが訪ねていきます。
それまで源太夫と又五郎は顔見知りで、随分と親しかったようです。しかし、それが、話がどう転んだのかも、またまた、分からないのですが、この河合又五郎主従四人が、事もあろうに、数馬の弟源太夫を切り殺してしまう結果になるのです。その時、この又五郎は、よっぽど、この殺傷事件に驚いたのか、自分の脇差の鞘をその場に落としたまま、どこに姿を隠くしてしまいます。
数馬の下部(しもべ)岩佐作兵衛は、その日、体の調子が悪く、自分の家で臥せっていたのですが、数馬の家の騒ぎを聞きつけ、急いで、路地を飛び出します。すると、その時、路地の奥より、血刀を下げた者が、急に飛び出してくるのに出会います。丁度、そこに徒目付、「遠山才兵衛」が現われます。この人も、相当腕に自信があったと見えて、河合又五郎の従者三人を悉く取り押さえています。従者と云うのは小間使いような百姓上がりの人であったのではないかと思うのですが取り押さえています。
さてと、これがあの荒木又衛門の伊賀上野での三七人切りの始まりなのです。
なお、この「常山紀段」には書かれてはないのですが、数馬の弟源太夫と云う人は大変なイケメンだったらいいのです。そのイケメン源太夫に、この河合又五郎が大層懸想して、常日頃いい寄っていたのだそうです。当日、源太夫の家には、兄数馬も留守です。彼一人しかいません。それをよいことに、この河合又五郎が近づたのだそうです。そもそも、これが、このいざこざが源であるとされているのが真相らしいのです。私にはわからないのですが、男色と云うのは、そんなに、いいもんでしょうかね。
6日付けの山陽新聞の夕刊一面に「パワースポット人気」と云う記事が載っています。
それによりますと、『癒やしや神秘を求め、各地の神社や自然が「パワースポット」として人気をさらっている』ものの中に、伊勢神宮、金毘羅宮と一緒に、我が町吉備津の吉備津神社も入っているのだそうです。
その拝殿をどうぞ。
余談ですが、詳しい説明は省きますが、誠に、拝殿らしからぬ神社の拝殿です。その一つとしてあげられるのは、此の拝殿には「天井」がなく、化粧屋根裏と云われる美しい屋根裏を見ることが出来ます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/26/3b/2d9a151e813f51d796fad888e4df7a72.jpg)
さて、今、この神社で売られている「桃守」が、若い女性の人気の的なのだそうです。1cmほどの桃と鈴が付いたストラップです。この桃の中に開けられた小さな穴が、この人気を引き付けているのだそうです。700円ですのでお買い求めていただいて、その穴の中の秘密に挑戦してみてください。
これを買い求めた人は、その人の恋愛が成就すると云われ、爆発的な人気を博していると言う事です。
なお、蛇足ですが、この吉備津神社は、鬼退治と猿・雉・犬の桃太郎のモデルになった神様を主神としてお祭りしています。
この桃太郎の「桃」は、その桃の持つ霊力によって、この世にいる総ての鬼達を退治できる唯一の物だったのです、言い換えますと、鬼を退治できるものは、「桃」しかなかったのです。だから、鬼退治は「桃」が付いた人物、そうです。桃太郎しかなしえなかったのです。桃太郎が鬼退治と必然的に結び付いたのです。梅太郎でも、梨太郎でも無花果太郎でも駄目だったのです。
この桃の霊力については、古事記にも書かれています。
それによると、火の神を生んで、その妻「イザナミ」は死にます。死んだ愛する「イザナミに逢いにイザナギは黄泉の国に行きます。そこで見た、ウジだらけになっていた妻「イザナミノミコト」の変わり果てた姿に驚いて、急いで、この世に逃げ帰るます。怒った「イザナミ」は鬼女「黄泉醜女(よもつしこめ)」を遣わして、逃げ帰った我が夫を追いかけ殺そうとします。その逃げ帰る途中で、鬼女を追い払うために、イザナギは持っていた桃を投げつます。その桃の持つの霊力によって、「イザナギ」を追いくる鬼女達はその場に立ちすくんでしまいます。その間に、イザナギは、無事に、この世に逃げ帰る事が出来たと。
神社の話ですと、吉備津神社の、この「桃守」が、どうして若い女性に人気になっているのかは分からないのだそうですが、どうも恋愛と何にか関係がありそうだと云う事でした。本来からすると、吉備津神社は武勇や戦いの神様、恋愛とは何ら関係がない神様だという話でした。なお、嬉しいことに、ここ数年来、相当、この「桃守」が売れているのだそうです。
元来、吉備津神社の造りは「比翼入母屋造」と呼ばれる特別な建築様式ですが、この「比翼」と云うのは、お互いに片方の翼しか持っていなかった雌雄2匹の鳥が結びつき、以後、決して、この二人は離れることはなかったという中国の神話が由来とされていますから、吉備津神社と恋愛が全く無関係なことでもないのですから、「桃守」を自分の恋愛と結び付けて買って行く若い女性があってもいいのではと思います。
そんなたくさん集めた者の中で、特に吉備の国に関係のある人物を抜き書きしてみました。
その最後に出てくるのが「渡辺数馬報讐始末の事」です。荒木又衛門の仇打ちで有名な渡辺数馬のことです。
これも、相当の枚数を使って書いていますので、全部紹介するのには、少なくとも10日ぐらいは要るのではないかと考えています。その書き出しは
「渡辺数馬弟源太夫が仇河合又五郎を討けるは寛永十一年十一月七日の事なり」と云う出出しから始まります。
この春はよしの山の山もりとなりてこそしれ花のこころを、読んだ芳野から、又、山城の鹿背山引きこもり、又、播磨の明石に移り、次には、大和の矢田山にかくれます。蕃山61歳の時です。明石は松平信之の領地であったが、大和の郡山に領地替えの為に移っています。更に、松平信之が郡山から奥州古河に移ったため、蕃山も一緒に古河へ移ります。それだけ、此の松平信之と云う人は、熊沢蕃山を深く尊信していた証拠でもあるのです。
その古河に移った蕃山は、貞享4年8月に、幕府の政策に対する意見具申をします。是が幕閣たちの反感をかい蟄居を命じられます。
その後、この古河にあっても、多くの家臣たちが絶え間なく教えを請うべく、蕃山を尋ねます。もし、その時政治の話にでもなれば、蕃山先生、傍に置いてある笙を取り出して吹いて、一言も政治向きの話は以後一切しなかったと言われています。
元禄4年、73歳の時に古河で病死しています。
常山は最後に次のように書き表しています。
「歳七三なり伯継の学朱子王子によらず。別に一種の学をなすといえども文学に短にして政事の才其長ぜる処。自著せし書に見えたればここに詳にせず」
と。