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時事評論ブログ
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声なき声

2015-07-22 20:16:13 | 政治・経済
 安保法案の衆院強行採決から一週間がたつが、反対の声はおさまる気配がない。下火になるどころかますます燃え盛り、全国各地でデモや抗議集会が相次いでいる。
 しかし、これらの声に対しても、政府与党は依然としていっこうに耳を傾けようとはしない。「抗議の電話がかかってこない」(麻生副総理)とか「昔に比べれば比較的穏やかだと思う」(谷垣幹事長)など、なんとか「大したことじゃない」ことにしようと必死だ。その姿はまるで、危機に直面したときに砂のなかに頭を隠して危険から逃避するダチョウのように見える。自分たちの党にせまっている危機も直視できない人たちに、日本を守ることなどできるのだろうか――そんな疑問を持たずにはいられない。

 さて、記事タイトルにある“声なき声”という言葉であるが、これは60年安保闘争時の一つのエピソードからとったものである。
 60年安保の当時もいまと似たような状況があったわけだが、その当時の岸信介総理は「“声なき声”の支持がある」といった。国会前は反対派のデモに取り囲まれているが、反対しているのはごく一部の人で、表に出てこない人たちは自分を支持している――というわけである。
 すると、その発言の翌日に「声なき声の会」と書かれたプラカードが国会前にあらわれた。安保反対こそが、まさに国民の“声なき声”だったのだ。岸信介は、その“声なき声”を見誤っていた。そして、いま岸の孫である安倍晋三が、同じ過ちを犯そうとしている。
 「デモは比較的穏やかだ」という谷垣幹事長は、完全に事態を見誤っている。
 かつての安保闘争は、政党と深い関係をもち、高い組織率を誇る労組によって組織的に動員されたものだったが、いまはそうではない。労組はかつてほどの力を持っていないし、デモや抗議行動を敬遠するような空気も――これは70年安保の過激化で醸成されたものがいまでも尾を引いているのだと思うが――残念ながら世間には根強い。さらにいえば、デモに行こうと思っても仕事の都合でこられない人だっている。そのなかでこれだけの人が集まっているということを、重く見なければならないのだ。
 一人のデモ参加者の背後には、そこに来なかった、あるいは来られなかった何百、何千という“声なき声”が横たわっている。その声が聞こえない者に、政治家の資格はない。


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