10日ぶりに、安保法廃止を求める抗議運動についての記事を書く。
抗議運動として、いつもはデモやスタンディングアピールなど路上の行動をとりあげている当ブログだが、今回は屋内である。11月29日、学者らで作る「立憲デモクラシーの会」の主催で、「安保法制以後の憲法と民主主義」と題したシンポジウムが行われた。これに私も参加してきた。
「立憲デモクラシーの会」は、主に東京でシンポジウムを行っているが、11月になってからは地方講演会も行っている。公式サイトによれば11月の20日に北海道であの「戦争したくなくてふるえる。」デモの主催団体らとともにシンポジウムを行ったのを皮切りに、来年1月の岡山まで、都合三回が今のところ予定されていて、福岡はその2回目となる。山口二郎、中野晃一、阪口正二郎という錚々たる顔ぶれが、福岡の明治安田生命ホールに登場し、福岡で活動する「戦争を許さない福岡県民委員会」、ママの会、FYM、九条の会の代表者らとともにパネルディスカッションを行った。下の画像は、中野晃一氏による基調講演の様子。
基調講演は、阪口、中野両氏によって行われたが、このうち阪口氏は、憲法学の観点から安倍自民党の政治姿勢を批判した。
阪口氏は、自民党の憲法草案が現行憲法の97条を削除していることについて、基本的人権の普遍性を尊重するという観点からして「明治憲法よりも後退している」とする。明治憲法でさえ、海外の憲法を基にして、ある種の普遍性をそこにもたせようとしていたにもかかわらず、自民党の改憲草案はそのような普遍的な視点を持っていないという指摘だ。基本的人権については11条などにも書かれているから重複する条文は必要ない――というのが自民党の主張なわけだが、しかし憲法の最高法規性を扱う第10章にこの条文があることには、重要な意味がある。人類の長い歴史で積み重ねられてきた普遍的価値として基本的人権があり、それを保障するがゆえに憲法は最高法規であるということを示しているからだ。単に日本国憲法に基本的人権の規定を入れるか入れないかという選択の問題ではなく、それがまず根底にあって、それこそが憲法が最高法規であることの源泉なのだから、この条文を削除するということは、まさに基本的人権という普遍的価値のうえに成り立つ“狭義の立憲主義”の否定にほかならない。あの武藤貴也氏のツイッター発言などを見れば、それはよくわかるだろう。彼らは基本的人権というものを頭から敵視していて、そうであるから、そもそも憲法を云々する資格がないのである。
また、中野晃一氏は、安倍政権を“DV政権”と批判した。
そのこころは、相手をねじ伏せ、屈服させ、無力化させることで、“自発的な服従”を強いようとしているということ。“自発的な服従”というのは矛盾しているように聞こえるが、国民が抵抗の意思をなくし、もう何をいっても無駄だと従順に従うようになることこそが安倍政権の目論見なのである。中野氏は、ここに歴史認識の問題もからめて、従軍慰安婦問題をその象徴と見る。すなわち、安倍自民史観では、従軍慰安婦というのは“自発的”に服従した人たちであって、そうであるから文句をいう資格がないという認識になるわけだ。そしてそれは、安倍政権の国家観が実現されれば、日本は、誰しもが従軍慰安婦のような立場を強いられる国になってしまうということを意味してもいる。
そして中野氏は、憲法と人権の問題だけでなく、安全保障という観点からも安保法制に異論を唱える(※)。
この講演において中野氏が指摘するのは、“抑止力”という言葉の空疎さ。抑止力が抑止力として機能するためには、「○○という行動を起こしたら△△という結果を招く」ということが具体的に知られている必要がある。たとえば身近な例としていえば、子供に対して「宿題をやらなかったらテレビを見させない」というようなことである。「テレビを見させない」という結果が具体的に提示されて、はじめて「宿題をやらないとまずい」という判断につながるわけで、ペナルティによって相手の行動をコントロールしようとするなら、このように具体性があり、かつそれを相手が事前にそれを知っていることが必要となる。ところが、安倍政権は、安保法制に関する国会での審議で、具体的に何ができて何ができないのかということを明確にせず、「総合的判断」というブラックボックスのなかに入れ、あいまいなままにしてしまった。これでは、具体的なケースが想定されないから、たとえば中国が何か行動を起こしたとして、それに対して日本が何をして、何をしないのかがまったくわからない。これでは“抑止力”など働きようがない――という批判である。
基調講演後のパネルディスカッションでは、各団体のこれまでの活動や今後の取り組みが報告された。
全有権者の6人に1人が投票するだけで自公が勝ててしまう現在の状況(中野晃一氏の分析による。ただし、参院では少し事情が違うだろう)では、見通しはまだまだ厳しいが、民間から無所属の候補を立てるなどの動きも今回報告された。ただ無所属候補を立てたのでは共倒れになるだけだが、しかし「無所属候補に野党が推薦で相乗り」という形なら、特定の党の候補に一本化するよりもハードルが低く、勝負できる見込みも出てくる。これはひとつの有効な方法かもしれない。
ともかくも、各団体がまったくあきらめていないということが重要だ。今回参加したどのグループも、今後の活動にむけていろいろと考えている。そしてもちろん、この場にきていない団体もある。司会役の山口二郎氏は「違憲インフレ」という言葉を使ったが、憲法違反があちこちでまかりとおって“日常茶飯事”になってしまえば、憲法を破ることが当たり前になり、政府はなんでもやりたい放題となってしまう――そういう状況を許さないために、今後市民運動がいっそう連帯していく必要がある。そういう意味でも、「立憲デモクラシーの会」がこのように地方で講演会を開くことには大きな意義があると感じられた。来年以降も、ぜひ全国を行脚してもらいたいと思う次第である。
※……中野氏は、安全保障を専門とする学者からは批判の声が出ないので政治学者や憲法学者がやらざるをえないと嘆く。
中野氏によれば、安全保障の専門家が安保法制を批判しないのは、必ずしもそれに賛成しているからではなく、彼らが「日米安保ムラ」の住人だからだ。日米安保に異論を唱えるようなことをいうと学界で相手にされなくなるので、そういうことをいえない。それは、「原発ムラ」で原発を批判することができないのと同じ構図である。