ご無沙汰してしまいました。
とても、いろいろありました。
昨日は、夫に夕食も作って貰って、ずっと寝ていたのに、今朝も、朝から頭がぼんやり霞がかかってしまっていました。
娘の症状を考えながら、もしかしたら、神経ベーチェットではなく、MS(多発性硬化症)ではないのだろうか。等と考えていました。
前置きはさておき、
娘と共に南国へ逃避行に行っていました。
その留守を預かった、夫や、ハイジやごんたは大変なことになっていました。
実母や実父も、はたまた弟や義妹も・・・。
大雪が2度も降り、12月から、ごんたは本調子ではなかったようです。
雪のために動けない日が続き、学校は休みになったり、登校が遅れたり、下校が早められたり、夫は1人で大奮闘でした。
ハイジは、5時に起きて、洗濯をして、朝食を作り、洗濯を干して学校へ行ってくれました。
帰宅後も、洗濯を畳んだり、宿題を自分の分をした他に弟の宿題の丸付け等もしてくれて、夫と夕食を作り、片付けはハイジです。
疲れが出てしまったのか、3年前の東日本大震災以来2度目のインフルエンザに罹りました。
夫の母は喘息もあり、預けられないため、私の実家に預けることになりました。
もう、これだけでも、母としてなんとも不甲斐ない思いで一杯でした。
本当に手の掛からないハイジ、3年前の震災は、初めてのインフルエンザで休んでいたときに地震が起こり、抱きしめてテーブルに潜ったのです。この時に、久しぶりに抱きしめながら、一緒に居られて良かったと思ったものです。
他の子達は、発熱も多く、手が掛かりましたので、何度も病気の時には共におりました。
なので、こんなたまの時には看病をしてあげたいと思っていました。
実家は、この2月から弟夫婦が同居してきて、まだ幼子もいます。
気には掛けていましたので、熱が下がったら、自宅に帰った方がハイジは落ち着くと思ったので、夫に「熱が下がれば薬の副作用はなくなると思うので、引き取って家で1人で留守番させてね。」
と、お願いしました。
そこへ、姉が休んで寂しかったのか、ごんたも登校直後に発熱で呼び出しです。
しかし、インフルエンザではなく、どうも自己免疫疾患の方だったようです。
もう、仕方なく、病病介護をさせて、夫は仕事に行きました。
更には、豪雪!
ガレージが潰れて、車が出せない!
初日はそれでも、会社も休み、学校も休みになったので助かりましたが、夫から、「家から一歩もでられない。車も人も誰も通っていない。」
とのこと。
こちらは南国で雪の一片もありません。
バタバタの日々だったようです。
母から、
「ハイジに、寂しい思いをさせてしまって悪かったなあ。」
と、話を聞かされました。
母は、ハイジが話したかと聞くので、
「あの子は、そう言うこと言う子ではないから、聞いていないよ。ただ、夫から、様子を見に行ったら、さばの味噌煮の缶詰とカップラーメン食べてた話は聞いたよ。」
私の家族は田舎の農家で、インフルエンザで医者に行ったこともなければ、隔離されたこともなく、もう罹ってしまったら巡ぐりに一周するかもね~。で終わり。ねぎ味噌やら、卵やら、にんにく生姜湯等を飲まされて、暖かくして寝ているだけでした。
社会のセオリーを知らなかったのです。部屋も隔離、食事もタオルも、すべて分けると言うことを、初めて知りました。
また、わが家が13年間掛かり付けにしてきた小児科医は、前橋レポートのリーダーのお弟子さんです。
検査して、薬を処方して、治癒証明は書きますが、
「本当はさあ、薬なんて飲まなくても解熱剤使わなければ、脳炎なんて殆ど掛からないしその方が良く抗体が付いて、何個かの型に罹ると他の方が来ても、罹らなくなるんだと思うんだ。私達の子どもの頃は薬もワクチンもなかったから自然治癒を待つしかなかった。その分よく抗体が出来て、今、これだけ何百人ものインフルエンザのこどもにマスクしないで診察していても一度も罹ったことがないのだと思う。」
というような医師なので、特別に指導されなかったのです。
ただ、ドロが3歳で水疱瘡に罹ったときに、ハイジは生後2週間。
先生は、「ひえ~、下の子どうする?でも、おそらく今更隔離しても無駄だよね。うんと軽いかうんと重いかどっちかだよ。うんと重かったら、覚悟してね。」
と言うことで、罹りましたが、ハイジは本当に超軽くて済みました。1ヶ月健診で産科医にも、
「ふえ~。良かったねえ、死ななくて!」
まあ、田舎は、こんな調子の世界なのです。
弟のお嫁さんは、都会のセオリーの人でしたので、ハイジは隔離されたまま、腰が曲がって、やっと掴り歩きをしている母が、持って行ける食事は缶詰や、パン、お菓子、カップラーメン程度だったのだと思います。
子ども達は、いつもの調子で、「ハイジちゃん!」と遊びに来たがります。
ハイジも、「来ちゃ駄目だよ!」とは言うけれど、まだ3歳の子は解りません。
義妹が、何度も怒るのを見て、
下の弟夫婦が、預かってくれました。
弟夫婦にも、まだ幼子はいるのです。
リウマチの祖母の爪を切ったり、紙を梳かしたりしてくれた心優しい弟でした。
「悪いね。」と詫びると、
「罹る時は罹るし、罹らないものは罹らん。一巡すれば治まるさ。非常事態だもの、お互い様だ。増して、母がいない寂しさと、気兼ねを考えると、ハイジには可哀想なことをした。」
と・・・・。
義妹は、子どもを連れて外泊をして帰ってこなくなったので、結局実家に戻ったようですが、
ハイジには、本当に申し訳ないことをしたと思っています。
会って最初に抱きしめたら、
「気持ち悪いなあ!」
だって。
がっくし~。でも、
「寂しかった?」
と聞いたら、
「まあ、ちょっとね。」
と言ってくれたので、ほっとした。
結婚しないで母ちゃんと一緒にスイスの田舎で茅葺屋根の家を作って、一生暮らすといい続けているハイジ。
片付けられない症候群のハイジとは精神衛生上暮らしたくないと思ってきたが、
やっぱり、一生母ちゃんと暮らそうね。
心の中で呟きました。
とても、いろいろありました。
昨日は、夫に夕食も作って貰って、ずっと寝ていたのに、今朝も、朝から頭がぼんやり霞がかかってしまっていました。
娘の症状を考えながら、もしかしたら、神経ベーチェットではなく、MS(多発性硬化症)ではないのだろうか。等と考えていました。
前置きはさておき、
娘と共に南国へ逃避行に行っていました。
その留守を預かった、夫や、ハイジやごんたは大変なことになっていました。
実母や実父も、はたまた弟や義妹も・・・。
大雪が2度も降り、12月から、ごんたは本調子ではなかったようです。
雪のために動けない日が続き、学校は休みになったり、登校が遅れたり、下校が早められたり、夫は1人で大奮闘でした。
ハイジは、5時に起きて、洗濯をして、朝食を作り、洗濯を干して学校へ行ってくれました。
帰宅後も、洗濯を畳んだり、宿題を自分の分をした他に弟の宿題の丸付け等もしてくれて、夫と夕食を作り、片付けはハイジです。
疲れが出てしまったのか、3年前の東日本大震災以来2度目のインフルエンザに罹りました。
夫の母は喘息もあり、預けられないため、私の実家に預けることになりました。
もう、これだけでも、母としてなんとも不甲斐ない思いで一杯でした。
本当に手の掛からないハイジ、3年前の震災は、初めてのインフルエンザで休んでいたときに地震が起こり、抱きしめてテーブルに潜ったのです。この時に、久しぶりに抱きしめながら、一緒に居られて良かったと思ったものです。
他の子達は、発熱も多く、手が掛かりましたので、何度も病気の時には共におりました。
なので、こんなたまの時には看病をしてあげたいと思っていました。
実家は、この2月から弟夫婦が同居してきて、まだ幼子もいます。
気には掛けていましたので、熱が下がったら、自宅に帰った方がハイジは落ち着くと思ったので、夫に「熱が下がれば薬の副作用はなくなると思うので、引き取って家で1人で留守番させてね。」
と、お願いしました。
そこへ、姉が休んで寂しかったのか、ごんたも登校直後に発熱で呼び出しです。
しかし、インフルエンザではなく、どうも自己免疫疾患の方だったようです。
もう、仕方なく、病病介護をさせて、夫は仕事に行きました。
更には、豪雪!
ガレージが潰れて、車が出せない!
初日はそれでも、会社も休み、学校も休みになったので助かりましたが、夫から、「家から一歩もでられない。車も人も誰も通っていない。」
とのこと。
こちらは南国で雪の一片もありません。
バタバタの日々だったようです。
母から、
「ハイジに、寂しい思いをさせてしまって悪かったなあ。」
と、話を聞かされました。
母は、ハイジが話したかと聞くので、
「あの子は、そう言うこと言う子ではないから、聞いていないよ。ただ、夫から、様子を見に行ったら、さばの味噌煮の缶詰とカップラーメン食べてた話は聞いたよ。」
私の家族は田舎の農家で、インフルエンザで医者に行ったこともなければ、隔離されたこともなく、もう罹ってしまったら巡ぐりに一周するかもね~。で終わり。ねぎ味噌やら、卵やら、にんにく生姜湯等を飲まされて、暖かくして寝ているだけでした。
社会のセオリーを知らなかったのです。部屋も隔離、食事もタオルも、すべて分けると言うことを、初めて知りました。
また、わが家が13年間掛かり付けにしてきた小児科医は、前橋レポートのリーダーのお弟子さんです。
検査して、薬を処方して、治癒証明は書きますが、
「本当はさあ、薬なんて飲まなくても解熱剤使わなければ、脳炎なんて殆ど掛からないしその方が良く抗体が付いて、何個かの型に罹ると他の方が来ても、罹らなくなるんだと思うんだ。私達の子どもの頃は薬もワクチンもなかったから自然治癒を待つしかなかった。その分よく抗体が出来て、今、これだけ何百人ものインフルエンザのこどもにマスクしないで診察していても一度も罹ったことがないのだと思う。」
というような医師なので、特別に指導されなかったのです。
ただ、ドロが3歳で水疱瘡に罹ったときに、ハイジは生後2週間。
先生は、「ひえ~、下の子どうする?でも、おそらく今更隔離しても無駄だよね。うんと軽いかうんと重いかどっちかだよ。うんと重かったら、覚悟してね。」
と言うことで、罹りましたが、ハイジは本当に超軽くて済みました。1ヶ月健診で産科医にも、
「ふえ~。良かったねえ、死ななくて!」
まあ、田舎は、こんな調子の世界なのです。
弟のお嫁さんは、都会のセオリーの人でしたので、ハイジは隔離されたまま、腰が曲がって、やっと掴り歩きをしている母が、持って行ける食事は缶詰や、パン、お菓子、カップラーメン程度だったのだと思います。
子ども達は、いつもの調子で、「ハイジちゃん!」と遊びに来たがります。
ハイジも、「来ちゃ駄目だよ!」とは言うけれど、まだ3歳の子は解りません。
義妹が、何度も怒るのを見て、
下の弟夫婦が、預かってくれました。
弟夫婦にも、まだ幼子はいるのです。
リウマチの祖母の爪を切ったり、紙を梳かしたりしてくれた心優しい弟でした。
「悪いね。」と詫びると、
「罹る時は罹るし、罹らないものは罹らん。一巡すれば治まるさ。非常事態だもの、お互い様だ。増して、母がいない寂しさと、気兼ねを考えると、ハイジには可哀想なことをした。」
と・・・・。
義妹は、子どもを連れて外泊をして帰ってこなくなったので、結局実家に戻ったようですが、
ハイジには、本当に申し訳ないことをしたと思っています。
会って最初に抱きしめたら、
「気持ち悪いなあ!」
だって。
がっくし~。でも、
「寂しかった?」
と聞いたら、
「まあ、ちょっとね。」
と言ってくれたので、ほっとした。
結婚しないで母ちゃんと一緒にスイスの田舎で茅葺屋根の家を作って、一生暮らすといい続けているハイジ。
片付けられない症候群のハイジとは精神衛生上暮らしたくないと思ってきたが、
やっぱり、一生母ちゃんと暮らそうね。
心の中で呟きました。