まちみちふうけい

間もなく10年目も通過点

No.1368 万葉歌碑巡り・・・海南市編

2020-07-04 21:59:24 | 万葉
よろしくお願いします。











万葉歌碑・和歌山、名手酒造店駐車場


今回は万葉歌碑巡り、これまで未踏の地だった和歌山を初めて・・・じゃなかったな、昨年の夏に橋本市は巡ったことあったっけ・・・行ってみようと思います。和歌山と言うと自分(一人称)がよく行くのは和歌浦、加太方面、この辺りはもちろんのこと、それ以外にもいろいろな場所に万葉歌碑があるとのことです、今回は和歌山市から南へ行った所にある海南市を巡って行くこととしましょう。

まずは智辯和歌山高校から南に行った所にある黒江と言う町にある酒造会社の駐車場、その一角にあるのが写真1枚目、2枚目にある歌碑↓↓↓

「黒牛潟 潮干の浦を 紅の 玉藻裾引き 行くは誰が妻」(作者未詳・巻9-1672)

その下、写真4枚目、5枚目はその駐車場の裏手にある山の中腹部にある神社に立つのが写真にある歌碑↓↓↓

「いにしへに 妹と我が見し ぬばたまの 黒牛潟を 見れば寂しも」(柿本人麻呂・巻9-1798)

2つの歌に共通するのは「黒牛潟」の文字、かつてこの辺りは入江だったとのことでこの名前がついていたらしい、だから黒江と言う地名になったのかと推察できる。歌が詠まれたのが1300年ほど前のことだが、その頃はこの辺りが海だったの言うのも不思議な気もする、今の国道42号線が通っている辺りが昔は海だったのだろう、JR紀勢本線が山側を通っているのも何か関係しているのだろうか。
















海南市の中心部へとやって来ました、ここでは5つの歌碑を巡りましたがそのうちの4つの歌が↓↓↓

「紫の 名高の浦の 靡き藻の 心は妹に 寄りにしものを」(作者不詳・巻11-2780)

「紀伊の海の 名高の浦に 寄する波 音高きかも 逢はぬ子ゆゑ」(作者不詳・巻11-2730)

「紫の 名高の浦の なのりその 磯に靡かむ 時待つ我れを」(作者不詳・巻7-1396)

「紫の 名高の浦の 真砂地 袖のみ触れて 寝ずかなりなむ」(作者不詳・巻7-1392)

どの歌にも共通するのが「名高の浦」、現在のJR海南駅付近がその場所に当たるようです、と言うことはこの辺りも海だったと言うことか、さっきの黒牛潟から海岸線がつながっていたのでしょうか。旧街道である熊野街道が山手の高台の方を通っていて、往時はそこから真下に見える海を見ながら歩いていたことになるが、現在はそこが海南市の中心部、道路が碁盤の目状に張り巡らされ官公庁が建ち並び、更に海側に出た所の埋立地にはコンビナートの工場群。万葉の時代にはここにあった海に思いを馳せて歌を詠んだ人たちの気持ちも、時が経つにつれて壊されていってしまうのも時代の流れ、仕方ないかも知れない。



















海南市の中心部を離れて高台にある藤白神社へ、ひんやりとした境内の中を奥へと進んで行くと神社の中に有間皇子神社があり、そこにあるのが写真1枚目、2枚目にある歌碑↓↓↓

「藤白の 御坂を越ゆと 白栲の 我が衣手は 濡れにけるかも」(作者不詳・巻9-1675)

有間皇子についてはこの前にここで取り上げたことがありました、若くして謀反に巻き込まれて亡くなってしまった皇子、皇位継承が絡んでのこととなるとどうして悲劇が生まれることのなるのでしょう?上の歌はその有間皇子を思って詠まれた歌とのことです。藤白神社の境内を熊野街道が横切っていて、先の方へと進んで行くと有間皇子の墓所へとたどり着く、この場に立つのが写真下2枚目ある万葉歌碑↓↓↓

「家なれば 笥に盛る飯を 草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る」(有間皇子・巻2-142)

歌の意味は、旅の途中なのでご飯を盛る食器もなく椎の葉に盛って食べている、と言うこと。自分(一人称)だったらコンビニでパンを買って食べたよ~とここで報告するような、だから何?、と言いたくなるような感想を持ってしまいそうな歌ですが、皇子がこの歌を詠んだのは謀反の企てが露見して尋問を受けるために移送される時に詠んだとのこと。何気ない内容の中にとてつもない不安が込められているような気もしますが、その不安がすぐに現実のものとなってしまうだけに、今となってはせつない気持ちになってしまいそうな内容とも言えそうです。和歌山での万葉歌碑巡り、次回はこの地の走りの定番となっている和歌浦、加太方面へと行ってみようと思います、今回もご覧いただきましてどうもありがとうございました・・・・・・・・・・・まちみち