よろしくお願いします。
感染症渦が再び広がったことで何かもめてますね~、「Go to 何とか」ってやつです、なぜ今なのか、東京外しとか、他にやるべきことがあるだろう、とか。になりますが、自分(一人称)は今でもいいし、東京を外す必要もない・・・東京の人、気の毒過ぎますやん・・・と思います、他にやるべきことがあると言ってもこれも経済を復活させる策だから、今やっておくべき事案だと思います。テレビのニュースなどではデメリットばかり取り上げているけど、このキャンペーンを楽しみにしている人、待っていた人、これで生活を回復させられるって人も多くいるはずなのですから。これまで死んでしまっていた同然の経済を何とか動かしていこうと考えての策です、何もしないで経済が死ぬ、生活が死ぬ、命まで・・・ってなると元も子もないし、何かをやって結果を見るのもありなんじゃないかな。言うことが無責任過ぎる?でも「with コロナ」や「新しい生活様式」って言ってるわけだから、一歩踏み出すのが大事じゃないのかな、何かを変えなきゃ生きていけない時代にしてしまったのは人間自身なんだから。でもテレビのニュースを見ているとマスコミが恣意的に伝えている部分も感じてしまう、誰かを、何かを標的にしないと人は食いついてくれない時代ですからね、街頭インタビューでも10人中3人しか答えていない答えでもそれを映像で流してしまえば世間の総意になってしまうわけですから。まあそう言う自分(一人称)は特に何も変わらないし特に変えない主義ですけどね・・・いや、骨折したことでちょっと変わってしまった部分もあるけど、気持ちは感染症渦が始まる前から何も変わっていません。
さて、写真の方は2017年5月に走った愛知県愛西市の風景をお送りしています。この時の旅の目的は三重県内の登録有形文化財巡り、しかし走り始めは木曽三川を越えて愛知県内のJR弥富駅から、そこから北へ佐屋へと向かい・・・一番目のゾーンにある写真の風景・・・その後は木曽三川に架かる橋へと進みました。3本の大きな川を渡る県道125号線、佐屋から進んでまず渡るのが木曽川に架かる立田大橋、次の長良川に架かる長柄川大橋を渡ると岐阜県へと入る。ここからは県道23号線となり揖斐川に架かる油島大橋を渡ると三重県へと入ると言うめまぐるしさ、この3つの大橋は日本の道100選にも選出されている、さて、走りの方はこの後長島へと向かうために木曽川と長良川に挟まれた中洲の島の中を通る道へと入って行く。
長島に向かう途中にあるのが船頭平閘門、wikiによると↓↓↓
「元々、木曽川・長良川・揖斐川のいわゆる木曽三川は下流部では合流しており、そのために洪水など災害が絶えなかった。そこで三川分流工事を明治時代に入って行うこととなったが、それに伴いかつては木曽川から長良川の対岸まで行けたものが、わざわざ河口地域まで迂回(うかい)する必要が生じることになり、当時は橋もほとんどなかったため物資輸送などの面で支障が出ることが予想された。そのため、木曽三川分流工事が開始された1892年(明治25年)の2年後にあたる1894年(明治27年)に木曽川と長良川の間をつなぐ水路の建設が決定、1899年(明治32年)に着工、1902年(明治35年)に完成した。当時両河川の水面の高低差が約1メートルあったこともあり、閘門によりその調整を行うことにした。 」
とのことです。周辺は河川公園になっていて水路は穏やかな雰囲気とは言ってもいつ人の脅威になってもおかしくない、そんな川の流れを調整するために造られた施設と言うことで閘門は重要文化財に指定されている。周囲を散策しているとちょうどそこに観光船がやって来ました、木曽川からやって来た船は水門をくぐって閘門内へ、そこで水位が変わって反対側の水門が開いて長良川へと流れていく、なるほど、そういうことか~。水が人の脅威になるのは最近ばかりでなく昔からありました、その時代から人々は知恵を働かせて自分たちの暮しを守ってきた、結果を恐れずに立ち向かったその結晶がこの閘門だと言うことでしょう。現代の感染症渦にもあ~だこ~だとケンカばかりしていないで、立ち向かっていかなければ時代の先には進めて行けないのではないでしょうか、今回もご覧いただきましてどうもありがとうございました・・・・・・・・・・・まちみち
感染症渦が再び広がったことで何かもめてますね~、「Go to 何とか」ってやつです、なぜ今なのか、東京外しとか、他にやるべきことがあるだろう、とか。になりますが、自分(一人称)は今でもいいし、東京を外す必要もない・・・東京の人、気の毒過ぎますやん・・・と思います、他にやるべきことがあると言ってもこれも経済を復活させる策だから、今やっておくべき事案だと思います。テレビのニュースなどではデメリットばかり取り上げているけど、このキャンペーンを楽しみにしている人、待っていた人、これで生活を回復させられるって人も多くいるはずなのですから。これまで死んでしまっていた同然の経済を何とか動かしていこうと考えての策です、何もしないで経済が死ぬ、生活が死ぬ、命まで・・・ってなると元も子もないし、何かをやって結果を見るのもありなんじゃないかな。言うことが無責任過ぎる?でも「with コロナ」や「新しい生活様式」って言ってるわけだから、一歩踏み出すのが大事じゃないのかな、何かを変えなきゃ生きていけない時代にしてしまったのは人間自身なんだから。でもテレビのニュースを見ているとマスコミが恣意的に伝えている部分も感じてしまう、誰かを、何かを標的にしないと人は食いついてくれない時代ですからね、街頭インタビューでも10人中3人しか答えていない答えでもそれを映像で流してしまえば世間の総意になってしまうわけですから。まあそう言う自分(一人称)は特に何も変わらないし特に変えない主義ですけどね・・・いや、骨折したことでちょっと変わってしまった部分もあるけど、気持ちは感染症渦が始まる前から何も変わっていません。
さて、写真の方は2017年5月に走った愛知県愛西市の風景をお送りしています。この時の旅の目的は三重県内の登録有形文化財巡り、しかし走り始めは木曽三川を越えて愛知県内のJR弥富駅から、そこから北へ佐屋へと向かい・・・一番目のゾーンにある写真の風景・・・その後は木曽三川に架かる橋へと進みました。3本の大きな川を渡る県道125号線、佐屋から進んでまず渡るのが木曽川に架かる立田大橋、次の長良川に架かる長柄川大橋を渡ると岐阜県へと入る。ここからは県道23号線となり揖斐川に架かる油島大橋を渡ると三重県へと入ると言うめまぐるしさ、この3つの大橋は日本の道100選にも選出されている、さて、走りの方はこの後長島へと向かうために木曽川と長良川に挟まれた中洲の島の中を通る道へと入って行く。
長島に向かう途中にあるのが船頭平閘門、wikiによると↓↓↓
「元々、木曽川・長良川・揖斐川のいわゆる木曽三川は下流部では合流しており、そのために洪水など災害が絶えなかった。そこで三川分流工事を明治時代に入って行うこととなったが、それに伴いかつては木曽川から長良川の対岸まで行けたものが、わざわざ河口地域まで迂回(うかい)する必要が生じることになり、当時は橋もほとんどなかったため物資輸送などの面で支障が出ることが予想された。そのため、木曽三川分流工事が開始された1892年(明治25年)の2年後にあたる1894年(明治27年)に木曽川と長良川の間をつなぐ水路の建設が決定、1899年(明治32年)に着工、1902年(明治35年)に完成した。当時両河川の水面の高低差が約1メートルあったこともあり、閘門によりその調整を行うことにした。 」
とのことです。周辺は河川公園になっていて水路は穏やかな雰囲気とは言ってもいつ人の脅威になってもおかしくない、そんな川の流れを調整するために造られた施設と言うことで閘門は重要文化財に指定されている。周囲を散策しているとちょうどそこに観光船がやって来ました、木曽川からやって来た船は水門をくぐって閘門内へ、そこで水位が変わって反対側の水門が開いて長良川へと流れていく、なるほど、そういうことか~。水が人の脅威になるのは最近ばかりでなく昔からありました、その時代から人々は知恵を働かせて自分たちの暮しを守ってきた、結果を恐れずに立ち向かったその結晶がこの閘門だと言うことでしょう。現代の感染症渦にもあ~だこ~だとケンカばかりしていないで、立ち向かっていかなければ時代の先には進めて行けないのではないでしょうか、今回もご覧いただきましてどうもありがとうございました・・・・・・・・・・・まちみち