よろしくお願いします。
今回は久しぶりに環濠集落巡り、訪れたのは田原本町です、走ったのは昨年の夏と言うことで結構前の記録となってしまったのですが、怪我が治って走りを再開させてすぐの頃、本格的に遠出をする前のいわばオープン戦と言う感じで走った時の記録です。まあ2か月相棒君から遠ざかっていただけにこの辺りの走りは夏の暑さの中でも楽しくて仕方なかったですね。久しぶりの馬見丘陵公園へと出向いて、その後もう少し走りたいなあ~と思ってまだ巡っていなかった田原本町の集落へと行ってみることとしました。
まずは田原本町の南部、飛鳥川と京奈和道に挟まれた所にある矢部集落、飛鳥川沿いの自転車道を走っていると田園風景が広く見渡せる中にいい感じの集落が見えてくる。ちょっと寄道と言うことで外周の道路から集落の中へとチョイとお邪魔~、と進んで行くと写真4枚目に木と木の間に藁の綱が掛けられた場所へとたどり着く。奈良県の景観資産のHPには↓↓↓
「ここは氏神様に続くメインの道路で、地元の祭り「矢部の綱掛け」でかけられた綱により、独特の道路景観が作られています。 この「矢部の綱掛け」は 農作物が豊作であるように、また村に邪霊が入らないようにと祈願するお祭りです。毎年5月に行われ、江戸時代から続いているといわれています。」
また手抜き作業で申し訳ありませんが、上記のように記載がありました。まあ自分(一人称)は神事や祭りには興味はないので町並を一通りぐるりと巡ってここを後にすることとします。
飛鳥川を越えて東へと進んで行くと次にたどりつ言ったのが秦庄集落、向こう側には近鉄橿原線が通っていて近鉄笠縫駅もすぐの所にある。駅が近いとあって人の姿もチラホラとあり、グルグルと同じところばかり回っていると怪しい人と思われてしまいそう、ここは自転車で観光に訪れた旅人を装って・・・いや装う必要はない、まさにそうなのだから、と言うことで集落内を巡ってたどり着いたのが秦楽寺。またまた手抜き作業ですが↓↓↓
「大化3年(647年)、秦河勝の建立と伝えられています。本尊の千手観世音菩薩立像は百済国から聖徳太子に献じられたもので、河勝が太子より賜ったものとされていますが、現在のものは平安時代の作で、脇侍は秦河勝と聖徳太子であるといわれています。また、本堂前面にある「阿字池」は、弘法大師の築造と伝えられ、大師が、池の蛙がやかましく鳴くので叱ったところそれ以来鳴かなくなったとの伝説が残っています。」
とのことです、この町の名前もこの寺院から由来しているのでしょう。夏の暑さにひと時の涼しさを与えてくれそうな境内にある池は上記の文章にもあるように弘法大師の築造とのこと、案内板には梵字を模した池をここの他にあと2つ、田原本町にある寺院に手塹りしたとのことだが、その残りの2つについてももちろん巡りました、後々のお伝えとしておきましょう。
秦庄の北側の集落を通り抜けて近鉄西田原本駅へ、そこから近鉄橿原線を越えて田原本町の中心部へ、更に国道24号線を渡って阪手の集落へとやって来ました。写真の中ほどのある水路はこの先で寺川へと合流するが、この川についてはまた別枠で取り上げてみようと思っています。さて、集落巡りの方はいつものように意味もなくぐるりと町並を走り回るだけ、位置的には下ツ道と中ツ道の中間点にあって最寄駅が近鉄田原本駅、町の中心部の近い所にこのような集落があったんだな~と思わされる、多分寺川が境目になったのだろう。集落を巡っているとその中にある神社で偶然に万葉歌碑を見つけた↓↓↓
「みてぐらを 奈良より出でて 水蓼 穂積に至り 鳥網張る 坂手を過ぎ 石走る 甘南備山に 朝宮に 仕へ奉りて 吉野へと 入ります見れば いにしへ思ほゆ」(作者不詳・巻13-3231)
作者は分からないが「朝宮に 仕へ奉りて」とあるので天皇に近い役の人だろう、奈良から吉野へと行幸されるときに読んだ歌とのことで、この地である阪手が「坂手」と記されています。「甘南備山」と言うのは明日香村にある山とのことだが、神奈備とも記されるよく見かける山の俗称で、特定された山の名ではなく神が降臨する信仰の対象となった所とされています。そんなわけで田原本の環濠集落巡りはここまで、次回は続編として上記で触れた寺川に注ぐ水路を巡って行くこととしましょう、今回もご覧いただきましてどうもありがとうございました。 まちみち
今回は久しぶりに環濠集落巡り、訪れたのは田原本町です、走ったのは昨年の夏と言うことで結構前の記録となってしまったのですが、怪我が治って走りを再開させてすぐの頃、本格的に遠出をする前のいわばオープン戦と言う感じで走った時の記録です。まあ2か月相棒君から遠ざかっていただけにこの辺りの走りは夏の暑さの中でも楽しくて仕方なかったですね。久しぶりの馬見丘陵公園へと出向いて、その後もう少し走りたいなあ~と思ってまだ巡っていなかった田原本町の集落へと行ってみることとしました。
まずは田原本町の南部、飛鳥川と京奈和道に挟まれた所にある矢部集落、飛鳥川沿いの自転車道を走っていると田園風景が広く見渡せる中にいい感じの集落が見えてくる。ちょっと寄道と言うことで外周の道路から集落の中へとチョイとお邪魔~、と進んで行くと写真4枚目に木と木の間に藁の綱が掛けられた場所へとたどり着く。奈良県の景観資産のHPには↓↓↓
「ここは氏神様に続くメインの道路で、地元の祭り「矢部の綱掛け」でかけられた綱により、独特の道路景観が作られています。 この「矢部の綱掛け」は 農作物が豊作であるように、また村に邪霊が入らないようにと祈願するお祭りです。毎年5月に行われ、江戸時代から続いているといわれています。」
また手抜き作業で申し訳ありませんが、上記のように記載がありました。まあ自分(一人称)は神事や祭りには興味はないので町並を一通りぐるりと巡ってここを後にすることとします。
飛鳥川を越えて東へと進んで行くと次にたどりつ言ったのが秦庄集落、向こう側には近鉄橿原線が通っていて近鉄笠縫駅もすぐの所にある。駅が近いとあって人の姿もチラホラとあり、グルグルと同じところばかり回っていると怪しい人と思われてしまいそう、ここは自転車で観光に訪れた旅人を装って・・・いや装う必要はない、まさにそうなのだから、と言うことで集落内を巡ってたどり着いたのが秦楽寺。またまた手抜き作業ですが↓↓↓
「大化3年(647年)、秦河勝の建立と伝えられています。本尊の千手観世音菩薩立像は百済国から聖徳太子に献じられたもので、河勝が太子より賜ったものとされていますが、現在のものは平安時代の作で、脇侍は秦河勝と聖徳太子であるといわれています。また、本堂前面にある「阿字池」は、弘法大師の築造と伝えられ、大師が、池の蛙がやかましく鳴くので叱ったところそれ以来鳴かなくなったとの伝説が残っています。」
とのことです、この町の名前もこの寺院から由来しているのでしょう。夏の暑さにひと時の涼しさを与えてくれそうな境内にある池は上記の文章にもあるように弘法大師の築造とのこと、案内板には梵字を模した池をここの他にあと2つ、田原本町にある寺院に手塹りしたとのことだが、その残りの2つについてももちろん巡りました、後々のお伝えとしておきましょう。
秦庄の北側の集落を通り抜けて近鉄西田原本駅へ、そこから近鉄橿原線を越えて田原本町の中心部へ、更に国道24号線を渡って阪手の集落へとやって来ました。写真の中ほどのある水路はこの先で寺川へと合流するが、この川についてはまた別枠で取り上げてみようと思っています。さて、集落巡りの方はいつものように意味もなくぐるりと町並を走り回るだけ、位置的には下ツ道と中ツ道の中間点にあって最寄駅が近鉄田原本駅、町の中心部の近い所にこのような集落があったんだな~と思わされる、多分寺川が境目になったのだろう。集落を巡っているとその中にある神社で偶然に万葉歌碑を見つけた↓↓↓
「みてぐらを 奈良より出でて 水蓼 穂積に至り 鳥網張る 坂手を過ぎ 石走る 甘南備山に 朝宮に 仕へ奉りて 吉野へと 入ります見れば いにしへ思ほゆ」(作者不詳・巻13-3231)
作者は分からないが「朝宮に 仕へ奉りて」とあるので天皇に近い役の人だろう、奈良から吉野へと行幸されるときに読んだ歌とのことで、この地である阪手が「坂手」と記されています。「甘南備山」と言うのは明日香村にある山とのことだが、神奈備とも記されるよく見かける山の俗称で、特定された山の名ではなく神が降臨する信仰の対象となった所とされています。そんなわけで田原本の環濠集落巡りはここまで、次回は続編として上記で触れた寺川に注ぐ水路を巡って行くこととしましょう、今回もご覧いただきましてどうもありがとうございました。 まちみち