湖のほとりから。

花と空と心模様を写真と詩と文に託して。

森の優しさ

2019-02-19 17:48:26 | 日記
傘にかかる雫の音は
パラパラと

ナイロンの
新しい素材は
軽々しい音だけれど
今日は
そのくらいがちょうどいい


どれぐらいだろう
この参道の森を歩くのは、、、。


前に歩いた時は
まだ私には両親がいたころ


2人を見送り
そして、一年が過ぎるのを待ち
節分を超えて
自分の誕生日となった
雨水の日らしく
やっぱり今日も雨で笑ってしまう


かなりの降りようなのに
あまりの森の深さで
雨粒はかからない


けれど
空に近い上
葉っぱ達から
雨粒を両手で受け止めて


少しだけ吸い込んで
まぶたの中のように

溜めてから
少しだけ丸めて落とすから

そこで
突き刺さるような雨粒でなくなる


参道の道はまだそれほど濡れてない
森の木々達は
たくさん恵の水を吸い込んでくれている


私に乾いた場所の
行く道を案内してくれるかのように
私は森に吸い込まれていく


それがあたたかくて
色んなことを思い出し
歩いている途中で
はらはらと流れでてくる涙


頬に
雨粒がかかってしまったわけじゃない


あいかわらず
パラパラと
軽い雫の音がする


パラパラ

はらはら


雨は優しい

森も優しい


時は進んでいるけれど

私を待っていてくれたようだね。


ありがとうって

森の木々達にご挨拶をしながら

























2月19日、雨水

2019-02-19 00:10:45 | 日記
どうもこの日は
雨模様の日が多い


それもそのはず
二十四節気で言われる『雨水』


春の訪れとともに
草木のための雨が降る


すべてのものを潤し
循環し恵みをもたらす水を与えてくれるといわれる


昔々、私は雨女と言われた
この日に生まれたものの宿命のようなものが
いつもつきまとってしまっていた

とあるある日から
雨でも悪いわけではない
晴れじゃないだけ

雨が降るからこそ
草木は育ち
また、太陽の光も一段と感じられるというもの。

私の誕生日を母はいつの間にか
忘れるようになった

それはそれで
自分本位ではなく哀しさがこみ上げる

別段何もなくても
そこには言葉があった

年老いて
身動きとれなくなってしまってから
母は私へと、一万円札を差し出すようになった。

何にもしてあげられないけど
好きなものを買いなさいと

昔の人は、お金をむき出しでは手渡さない
紙も封筒も持ち合わせがないから
テッシュに包んでてわたそとする

最初は『いらないよ』って
断ってはいても
あまりの体の衰退から
ここは素直に気持ちを頂くことが
気持ちを汲み取ることだと受け取っていた

それも、三年ほどだったかー。

今から、2年前
今から考えれば、私の誕生日を忘れても
数日後に思い出し
紙包みを渡してくれたのが最後となる


それまでもらったものは
私は靴下あたりを買って
残りは母が使える母のためのものを
こっそり買ってきてあげたりしていた

けれど最後にもらった紙包みは
私の財布の隅にある

使えない

使えるもんじゃない

母がか細い手で握りしめたクシャクシャの
テッシュの紙包みの中に入れた一万円札は
使えないまま私のお守りとなった


そして
私の誕生日は
母が私を生んでくれた日という日は

痛みをこらえ
この世に生を授けてくれた

たとえそれが
神さまの御心であったにしても
痛みは母の感じたもの

そうして私が生まれたことを
思い出す日となる

生んでくれた感謝を真摯に感じる日

今までのように
浮かれて
誕生日おめでとう
ありがとうって言うのとは違う

厳かで静かな感謝の日となる


ご仏壇にお線香をつけて
感謝に手を合わしたら

この一年半の間に
行けなかった近くの神宮にお参りをしてこよう

神さまに手を合わせる

そうしょうと
随分前に決めたこと

静かに自分の誕生日を過ごすことにしょう