【誕生日】
☆ミケランジェロ・アントニオーニ Michelangelo Antonioni (1912.9.29~2007.7.30)

独自の知的リアリズムで愛の不毛を描き上げて鬼才と呼ばれ、世界映画史に燦然と名を残したイタリアの映画監督です。
北イタリアのフェルラーラで生まれ、ボローニヤ大学で語学、工学、経済学などを学び、20歳頃から戯曲や短編小説を書く
かたわら映画批評を書くようになり、映画で生きようと決意して1939年にローマに出ました。1942年に映画雑誌『チネマ』の
編集員を経てロベルト・ロッセリーニ作品の脚本を執筆し、マルセル・カルネの『悪魔が夜来る』で助監督を務めました。
第二次大戦後はヴィスコンティやジュゼッペ・デ・サンテスなどの脚本を書きネオ・リアリズムの精神が根付き、1948年から
1950年の間に数本の短編を制作した後、1950年に『ある恋の記録』で初の長編監督をしたものの興行的には失敗に終わりました。
1951年にはオムニバス映画『巷の恋』の第二話『自殺未遂』においてネオ・リアリズモの手法とドキュメンタリー・タッチで
自殺する場所を探す女を描きましたが芳しい評価を得るまでには至りませんでした。
次いで1955年にはチェーザレ・パバーゼの小説をもとに、トリノのブティックを舞台にして主人公の女ともだちとそれに関わる
人々との無味な人間関係を鋭い感覚で描き、群像劇の中に見受けられる新手法の独自のリアリズムが高く評価され、これが
知的リアリズムと称されることとなり、この作品を起点として映画は物語を見せるものではなく、登場人物の心理を映像表現
する映画へと進化していきました。
1957年には自らの実体験をもとにした『さすらい』を発表、孤独に苛まれ絶望しながらも脱出を求めて苦闘する主人公の姿は
心のつながりを失って孤立し漂流する現代人の不安そのものを表わしていて、癒しきれぬ真実の愛への絶叫はまさに「叫び」
そのもので、モノクロの映像美の中に心の渇きを背後にして、荒涼として広がる冷淡な風景と重ねて合わせるという優れた
イメージ処理によってアントニオーニ独特の映像芸術が確立され、感情を映像で表現するという作風で他に追随を許さない
知的リアリズムの完成となりました。
そして1960年から1962年にかけての『情事』『夜』『太陽はひとりぼっち』の愛の不毛三部作を連続して発表しました。
『情事』では物語性を排除して登場人物の心理を映像表現する映画へと進化させていきました。不要な説明を一切せずに、
心のつながりを失って孤立し漂流する現代人の不安と孤独や癒しきれぬ真実の愛の渇きを、背後に広がる無人の冷淡な風景を
多用しながら、表向きでは繋がっている男女も実際は互いに隔絶し冷たい浮遊の個にすぎないという愛の不毛を映像で表現、
追随を許さぬ独自の映像芸術を確立、ラストシーンは冷ややかなカメラが二人を傍観するように冷酷に締めくくられていて
映画の本質は映像表現だと強く訴えました。まさに映像美学と映像表現の教科書そのものでもありました。
『夜』においても離婚の危機に瀕した中年夫婦を主体として都会に生きる男女の埋めることのできない断絶感を完成された
知的リアリズムで描き切り、『太陽はひとりぼっち』においては人間同士の断絶感を廃墟のような都会の情景を積み重ねる
ショットによりその心情をさらに深化した映像で綴りあげ、「明日も会おう、あさっても、毎日会おう…」というピエロの
言葉が虚しく響くだけで、無人の町の殺伐とした冷酷な風景が二人の愛を暗示していました。
これらの「愛の不毛三部作」に共通していえることはいずれの作品もストーリーがありません。アントニオーニ作品は物語の
起承転結を見せるものではなく、登場人物の心理を映像で表現する映画なので下手なストーリーは不要なのです。残念なことに
巷ではアントニオーニ作品は難解だといわれています。劇映画の基本はストーリー中心で起承転結の筋書きドラマというのが
前提だと決めつけて普通に物語を追って映画を観ている人にとっては物語の転結を説明してもらわないと難解としか見えない
でしょう。
続く1964年には愛の不毛を描き続けたアントニオーニの終結篇で彼が挑んだ実験的な色彩作品『赤い砂漠』を監督しました。
交通事故でショックを受け軽いノイローゼに陥った人妻が感じる倦怠そして不安と孤独を、無機的な工場周辺の風景と、断絶を
表現する原色、倦怠感を醸し出す濁淡色など色彩映画の定石を覆す独自の手法によって表現、主人公の疎外感と高度成長社会が
人間の精神を蝕んでいる現代の狂気を描いています。冒頭の無機質な工場群と林立する煙突から吹き上げる真っ赤な炎は
荒んだ主人公の心の底を象徴させて、さらには情事でも埋められない不安と孤独に苛まれ、絶望しながらも脱出を求めて
苦闘する姿はアントニオーニの独壇場です。アントニオーニは「愛の不毛三部作」において背後に広がる無機質で冷淡な
風景を多用することによって愛の不毛をモノクロ映像で表現、独自の映像芸術を確立させましたが、この作品においても
感情を色彩映像で表現しており、孤立し漂流する現代人の不安と孤独や癒しきれぬ心を描き切りました。
愛の不毛作品に一段落した1966年には新境地を求めてイギリスに渡って『欲望』を監督、現在における魂の不在を現実と
幻想を交えて意欲的に取り組みましたが、知的リアリズムの陰も薄れてどうも商業主義との折り合いを図ったような作品と
なり、1970年のアメリカで制作した『砂丘』も俗っぽい仕上がりで、かつての芸術肌は影をひそめてしまいました。
【主要監督作品】
1950年『ある恋の記録』 Cronaca Di Un Amore

1951年『巷の恋』 L'Amore In Citta
1956年『女ともだち』 Le amiche
1957年『さすらい』 Il grido
1960年『情事』 L'avventura
1961年『夜』 La notte
1962年『太陽はひとりぼっち』 L'eclisse
1964年『赤い砂漠』 Il deserto rosso
1966年『欲望』 Blow-up

1970年『砂丘』 Zabriskie Point
☆スタンリー・クレーマー Stanley Kramer (1913.9.29~2001.2.19)

メッセージ映画によって社会問題を鋭い目線で追及したアメリカの製作者・映画監督です。
ニューヨークに生まれ、ニューヨーク大学在学中に大学同人雑誌に執筆したことから20世紀フォックスのシナリオ・ライター
研究生として採用されました。フォックス社では小道具部の掃除係などの下積みの後に解雇され、MGM社、コロンビア社、
リパブリック社などの映画会社を転々としました。第二次大戦後に自らのプロダクションを設立し、製作者として自主作品を
制作しはじめ、1949年のマーク・ロブソン監督、カーク・ダグラス主演の『チャンピオン』が大ヒットして製作者としての
才能が認められるようになりました。1955年からは製作者兼監督として活躍を始め、1958年の『手錠のままの脱獄』翌年の
『渚にて』で社会派監督としてその名が知れわたるようになりました。
1961年の『ニュールンベルグ裁判』では、戦勝国による敗戦国裁判の是非を問い、戦争裁判の矛盾を鋭い視線で見つめた
法廷劇によって映画としてのメッセージを突きつけ、その後もメッセージ映画によって問題提起を続けました。
【主要監督作品】
1955年『見知らぬ人でなく』 Not As A Stranger
1957年『誇りと情熱』 The Pride and the Passion
1958年『手錠のままの脱獄』The Defiant Ones
1959年『渚にて』On the Beach

1961年『ニュールンベルグ裁判』Judgment at Nuremberg
1963年『おかしなおかしなおかしな世界』It's a Mad Mad Mad Mad World
1965年『愚か者の船』Ship of Fools

1967年『招かれざる客』Guess Who's Coming to Dinner

1969年『サンタ・ビットリアの秘密』The Secret of Santa Vittoria