【誕生日】
☆ グレン・ミラー Glenn Miller (1904.3.01~1944.12.15)
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米国生まれのドイツ系アメリカ人、ジャズ・トロンボーン奏者・編曲家で代表格のビッグバンド・リーダーです。
10歳の頃からトロンボーンを始め、下積みの末に1937年にグレン・ミラー楽団を結成、既存音楽をスイング化する
アレンジで一躍人気楽団になり、『イン・ザ・ムード』などのアレンジが次々とヒットして、絶大なる人気を博した。
第二次世界大戦勃発に伴い1942年に陸軍航空軍に入隊し、慰問楽団を率いて精力的に戦地に演奏にまわったのですが、
大戦末期の1944年12月15日に慰安に向かう飛行機がドーバー海峡で消息を絶ち帰らぬ人となりました。
グレン・ミラーの活動期間はわずか7年余りでしたが名演奏の数々は音楽史に燦然と刻まれています。
また、1953年には楽団員のレイ・マッキンレーが彼の残した音楽を継承するためにニュー・グレン・ミラー楽団を
結成して音楽活動を続けていました。
【主要演奏曲】
『ムーンライト・セレナーデ』Moonlight Serenade (作曲も)
『イン・ザ・ムード』In The Mood
『真珠の首飾り』String of Pearls
『アメリカン・パトロール』American Patrol
『茶色の小瓶』Little Brown Jug
『タキシード・ジャンクション』Tuxedo Junction
『ペンシルベニア6-5000』Pennsylvania 6-5000
『チャタヌーガ・チュー・チュー』Chattanooga Choo Choo
☆ ダイナ・ショア Dinah Shore (1917.3.01~1994.2.24)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/75/23/59bdf035bd9d6370dc4a4dce6e124d29.jpg)
クラブ歌手からTV番組を経て『ボタンとリボン』で一気にメジャーになったアメリカの女性ポップシンガーです。
1938年ナッシュビルのバンダービルト大学在籍中に、地元ラジオ局の公開ライブショーで注目され、同年卒業後に
ニューヨークへ移住して本格的な活動を開始しました。しかし、ベニー・グドマン楽団やトミー・ドーシー楽団の
オーディションを受けたものの意外にも不合格だったようです。これに懲りずにソロ活動を始め、1941年には
「Yes. My Darling Daughter」が米国で10位を記録、念願の初チャートインを果たしました。
何よりも彼女を世界的に有名にさせたのが1948年の映画『腰抜け二挺拳銃』の主題歌『ボタンとリボン』のカヴァーが
大ヒットし、1953年『青いカナリア』のヒットで40年代から50年代にかけて女性シンガーとして大成功を収めました。
その後は活動をTVに移して『The Dinah Shore Show』などによって1990年代まで活躍を続けました。
↓はダイナ・ショアの『ボタンとリボン』【YOUTUBEより】
↓はダイナ・ショアの『青いカナリア』【YOUTUBEより】
☆ デヴィッド・ニヴン David Niven (1910.3.01~1983.7.29)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/38/cf/f96ddd6a4241d04ce7e0f0da657a8c25.jpg)
気品とユーモアに富むイギリス紳士としてぎこちない演技ながらも喜劇などで活路を開いた俳優です。
イギリスの士官学校から軍人となり、退役後は新聞記者をしていましたが俳優を目指してハリウッドに移りました。
しかし、ハリウッドでは何度もカメラ・テストで不合格となり台詞の少ないない端役に甘んじることになりました。
1944年にイギリスに戻り、キャロル・リード監督の『最後の突撃』、さらに1946年の『天国への階段』で主演を
つとめてようやく開花、その後、ハリウッドでも主役級を与えられるようになりスターの地位を確立しました。
【主要出演作品】
1936年『ローズ・マリイ』 Rose-Marie
1936年『孔雀夫人』 Dodsworth
1937年『ゼンダ城の虜』The Prisoner of Zenda
1938年『青髭八人目の妻』Bluebeard's Eighth Wife
1939年『嵐が丘』Wuthering Heights
1944年『最後の突撃』The Way Ahead
1946年『天国への階段』A Matter of Life and Death
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1950年『怪傑紅はこべ』The Elusive Pimpernel
1953年『月蒼くして』The Moon Is Blue
1956年『八十日間世界一周』Around the World in Eighty Days
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6d/34/b54cde8cab82349892326ba429f2525a.jpg)
1958年『悲しみよこんにちは』Bonjour tristesse
1958年『旅路』Separate Tables
1961年『ナバロンの要塞』The Guns of Navarone
1961年『好敵手』The Best of Enemies
1963年『北京の55日』55 Days at Peking
1963年『ピンクの豹』The Pink Panther
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1e/57/7efe609347d8163c55d955321b21be18.jpg)
1964年『レディL』LAdy L
☆ ハリー・ベラフォンテ Harry Belafonte (1927.3.01~ )
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カリプソ音楽の王様と呼ばれ、黒人として初めてカーネギー・ホールの舞台を踏んだアメリカの歌手・俳優です。
西インド諸島の出身者の両親のもとにニューヨークで生まれました。8歳の時に母親の母国ジャマイカで生活、
その5年間に幼いハリーが見聞したことが後のカリプソ・ソングに多大な影響を与えることになります。
再びニューヨークに戻ると演劇の道に進み、ブロードウェイのクラブで唄っていたところを認められて
キャピトル・レコードと契約を結びました。その後、RCAと契約して1956年の「カリプソ」がアルバムとして
31週間連続全米No.1のミリオン・ヒットとなり、シングルカットされた『バナナ・ボート』が全米5位を記録し
カリプソ・ブームの発端となりました。
また、習得した演技力を生かして1954年にはオール黒人キャストで現代化したオットー・プレミンジャー監督の
音楽映画『カルメン』などにも出演しています。
1960年に入ってからは、TVプロデューサーのかたわら 公民権運動などの社会活動を始め、1985年にはアフリカの
飢餓救済のために「U.S.A.フォー・アフリカ」を提唱、アフリカの飢餓救済のために全米オールスターで唄った
『ウィ・アー・ザ・ワールド』を送りだしています。
【主要歌唱曲】
『バナナ・ボート』Banana Boat Song
『マティルダ』Matilda
『ダニー・ボーイ』Danny Boy
『さらばジャマイカ』Jamaica Farewell
【主要映画出演作品】
1954年『カルメン』 Carmen Jones
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1957年『日のあたる島』 Island in the Sun
1959年『拳銃の報酬 』 Odds Against Tomorrow
【ご命日】
★アラン・レネ Alain Resnais (1922.6.03~2014.3.01)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3e/d6/074b507e1c4dad0fb8953b49e2828c33.jpg)
1950年代に起きた映画革新運動となるヌーヴェルヴァークの左岸派を代表するフランスの映画監督。
主な監督作品に『夜と霧』『二十四時間の情事』『去年マリエンバートで』『戦争は終わった』などがある。