『天井桟敷の人々』 Les Enfants Du Paradis (仏)
1944年制作、1952年公開 配給:東和 モノクロ
監督 マルセル・カルネ
脚本 ジャック・プレヴェール
撮影 ロジェ・ユベール、マルク・フォサール
音楽 ジョゼフ・コスマ、モーリス・ティリエ
主演 ジャン・バティスト(ガスパール・ドビュロー) … ジャン・ルイ・バロー
ガランス … アルレッテイ
フレデリック・ルメートル … ピエール・ブラッスール
ピエール・ラスネール … マルセル・エラン
ナタリー … マリア・カザレス
モントレー伯爵 … ルイ・サルー
フュナンビュール座座長 … マルセル・ペレ
エルミーヌ夫人 … ジャンヌ・マルカン
バティストの息子 … ジャン・ピエール・ベルモン
スカルピア・バリーニ … アルベール・レミー
古着屋ジェリコ … ピエール・ルノワール
第一部『犯罪大通り』
19世紀のパリのタンプル大通り(通称犯罪大通り)で、殿方の憧れ的存在女芸人ガランスに俳優のルメートルやラスネール、
それに悪漢のラスネールたちが熱をあげていたがガランスはそれを軽くあしらっていた。ある日、ガランスとラスネールが
「フュナンビュール座」のパントマイムを楽しんでいたとき、ラスネールが裕福そうな紳士の懐中時計を盗んだ。そばにいた
ガランスが盗みの疑いをかけられたとき、舞台上で盗みの一部始終を見ていたバティストがパントマイムで盗みを再現して
ガランス容疑が晴れる。それをきっかけにして知り合ったバティストもまたガランスの虜になってしまった。やがてガランスや
ルメートルもバティストと共に「フュナンビュール座」で一緒に仕事をするようになったが、その公演を見物していたモントレー
伯爵がガランスに熱をあげ財力をちらつかせて口説く。そんなとき、ガランスはまたも悪漢ラスネールが起こした事件のために
殺人未遂の共犯者として逮捕されそうになる。ガランスはこれを逃れるために伯爵の庇護に身を寄せ、バティストの愛に後髪を
引かれながら一座を去って、伯爵とともに遠国へ行ってしまった。
第二部『白い男』
それから五年後、バティストはフュナンビュール座の座長の娘ナタリーと結婚して一子をもうけ、一方ガランスは伯爵と結婚
していた。ある日、有名俳優になっていたルメートルのはからいでバティストはガランスと再会することができた。一方、
ガランスを妻にしたものの彼女に愛してもらえない伯爵はその原因がルメートルだと勘違いして嫉妬のあまり決闘を申し込む。
ところが伯爵はラスネールからガランスの愛しているのはルメートルではなくバティストであると告げられたことでラスネールを
激しく侮辱、これに怒ったラスネールは伯爵を刺し殺してしまった。その翌朝、バティストの前に現れたナタリーと子供の姿を
見たガランスはバティストへの訣別を決心し、謝肉祭の雑踏のなか足早にバティストのもとを去っていく。バティストは去ってい
ガランスを追って彼女の名を呼び続けた。そこに古着屋ジェリコから「祭りは終わった。もう家に帰れよ」と諭され、喧騒の中に
ひとり取り残される。
この作品はドイツ占領下のフランスで三年に渡って撮られた上映三時間を超える大河ドラマで、十九世紀前半のブルボン
王政復古からから七月王政にかけてのパリの犯罪大通りを舞台とした一大恋愛絵巻です。
物語はバチスタとガランスのかなわぬ愛の物語なのですが、登場人物が多く、更にはそれぞれ強烈な個性をもっています。
この作品を脚色するにあたり、詩人でもある脚本家ジャック・プレヴェールは、その当時に実在していたバティスト、ラスネール
そしてルメートルを軸にしてウィットに富んだ台詞を駆使しながら脚本書き上げています。
中でも、ラスネールは実際に何人もの人を殺めた犯罪者で36歳でギロチンの刑に処せられました。そのラスネールの獄中記
から「必要に応じては盗みもするし欲望に応じては殺しも辞さぬ」といったセリフが引用されています。
これを、ジャック・プレヴェールとコンビを組み『ジェニイの家』『霧の波止場』『悪魔が夜来る』などを撮ったマルセル・カルネが
詩的リアリズムとペシミズムを基調として純化された19世紀の風俗を再現し、コンビとしての集大成的作品に仕上げました。
社会全体を見下ろすと同時に人間の精神の内部をきめ細かく描き、それを社会と個人の関係として対比させるという手法は
ある意味でバルザック的な二元論なのかもしれません。
この作品の原題は"Les Enfants Du Paradis"すなわち「楽園の子供たち」で邦題は『天井桟敷の人々』とされました。
劇中にあるフュナンビュール座の舞台から一番遠くて天井近い上の席のことは「楽園」と呼ばれ、低料金席でもあっため、
下層の大衆が子供のように騒がしかったので「楽園の子供たち」と揶揄されていたそうで、この殺伐とした時代に生きる
貧しい庶民の鬱憤だったのかもしれません。
「人生は悲劇であり喜劇である。それは値段の高い席から見ても安い席から見ても同じである。」との意味合いもあるようです。
この作品の歴史的価値は何よりもドイツ占領下で撮られたということでしょう。ただし、ドイツ占領下といっても、比較的に
ナチ色がゆるくてある程度の自由があったヴィシー政権下の南仏ニースだったので制作することができたようです。
カルネは、ニースのラ・ヴィクトリーヌ撮影所に巨大なセットを作って「犯罪通り」を再現してそこで撮影を進めています。
カルネ監督がドイツ占領下で撮った『悪魔が夜来る』は反ナチ作品と評価されていますが、この『天井桟敷の人々』には
悪人や冷血漢が登場するためそれを反ナチとしてこじつけることもできますが、映画の背後にそれほどナチスへの強烈な
批判、すなわち隠されたメッセージは感じられません。敢えて言うなら、ガランスの伯爵に対する人間としての誇りがナチス
に対する自由と尊厳への反発だと言えなくはありません。
ジュリアン・デュヴィヴィエ、ジャン・ルノワール、ルネ・クレールなどが次々とハリウッドに逃れたのに対して、カルネは祖国に
とどまり作品を撮り続けました。それ自体がカルネにとってナチスに対する最大のレジスタンスであったともいえるでしょう。