港町のカフェテリア 『Sentimiento-Cinema』


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『1月22日』

2019-01-21 20:47:29 | 明日は誰の日

【誕生日】

☆ セルゲイ・M・エイゼンシュテイン Sergei M. Eisenstein (1898.1.22~1948.2.11)



サイレント映画の時代においてモンタージュ理論を実践したソヴィエト連邦の映画監督です。
旧帝政ロシアで豊かな上流階級の子供として育ったが1905年に第一次ロシア革命が起こり両親と共にパリに避難、その時に
ジョルジュ・メリエスの映画を観て深い感銘を受けたといわれています。その後、聖ペテルブルグに戻り、二月革命及び
十月革命を経て映画界に入りました。当時、指導者であったレーニンは「我々にとって最も重要な芸術は映画である」と
宣言して映画産業を国営化、実質的には映画をプロパガンダの道具として利用する意図があったようです。
その流れの中で1924年に『ストライキ』を監督しましたがこれはイデオロギー教育の宣伝そのものでしたが、翌1925年に
戦艦ポチョムキンとその船員達の反乱を描いた『戦艦ポチョムキン』を発表して世界の注目を浴びました。
エイゼンシュテインはこの作品の中で全世界に通じるサイレント映画の唯一最大の基礎技術であるモンタージュ理論を
実践しました。(モンタージュ理論とは、複数の映像をつなげることによって新しい意味が現れるというもので、これを
素早くカット・バックすることによってその効果が観る者に強くイメージされるという手法)
特に『戦艦ポチョムキン』における「オデッサの階段」は強烈なイメージとして今なお燦然と輝いています。
その後1928年にはソビエト革命十周年記念映画『十月』などを撮り、1944年には16世紀のロシアに初めて統一国家を
打ち立てた皇帝で独裁政治で暴君といわれたイワン大公を偉大な君主として描いた『イワン雷帝・第1部』を発表、時の
指導者スターリンもこれを絶賛しましたが、続く『イワン雷帝・第2部』では逆に痛烈なスターリン批判に通じたため
上映禁止となりました。エイゼンシュテインは『第3部』を予定していましたが彼の映画人生はこれで終わってしまいます。

【主要監督作品】
1924年『ストライキ』Stachka
1925年『戦艦ポチョムキン』Battleship Popemkin

1928年『十月』Oktyabri
1929年『全線』Staroei Novoe/Generalinaya Linya
1938年『アレクサンドル・ネフスキー』Alexander Nevsky

1944年『イワン雷帝・第1部』Ivan, the Terrible Ivan Groznyi Ⅰ

1946年『イワン雷帝・第2部』Ivan, the Terrible Ivan Groznyi Ⅱ


☆ デヴッド・ワーク・グリフィス David Wark Griffith (1875.1.22~1948.7.23)



映画誕生期のアメリカで、映像表現方法や映画文法の確立などに貢献してアメリカ映画の父と呼ばれている映画監督です。
初期の『ドリーの冒険』などにおいて、舞台における演出と同様に映画を物語としていかに観客が喜んで見てもらうかを
計算して、その見せ方すなわち構図やクローズアップなどの撮影技法を開拓し、『國民の創生』『イントレランス』の
超大作を完成させました。これらの成功によりグリフィスは主題を大衆受けする路線に切り替えて、当時のアメリカ映画の
一つの主流であったブルーバード映画に傾斜していきました。1919年の『散り行く花』翌年の『東への道』において
みずみずしい感傷と繊細なリアリズムによる写実でアメリカ芸術映画の基礎を創り上げていきます。しかし、この時代の
映画は商業主義に徹して、観客を呼べるスター育成に力を注ぎメアリー・ピックフォードをはじめリリアンとドロシーの
ギッシュ姉妹、ダグラス・フェアバンクスなどドル箱スターを育て上げることに注力しました。これによりスター主義による
客寄せ的な商業映画が盛んになり、ハリウッドにおいて映画は金儲けの手段となる下地が形成されていきました。
しかし、映画の父もトーキーの出現に対応できず1931年の『世界の英雄』を最後に淋しく映画界を引退しています。
(『國民の創生』は白人至上主義の秘密結社K.K.K.を正義の使者として扱っているため、映画としての価値は今なお大きく
分かれています)
【主要監督作品】
1908年『ドリーの冒険』 The Adventures of Dollie
1909年『淋しい別荘』 The Lonely Villa
1915年『國民の創生』 The Birth of a Nation
1916年『イントレランス』 Intolerance

1919年『散り行く花』 Broken Blossoms

1920年『東への道』 Way Down East

1921年『嵐の孤児』 Orphans Of The Storm
1925年『曲馬団のサリー』 Sally of the Sawdust
1931年『世界の英雄』Abraham Lincoln


【ご命日】

★ルチナ・ウィンニッカ Lucyna Winnicka (1928.7.14~2013.1.22)



ポーランド・カードル派のイエジー・カワレロヴッィッチ監督の夫人でポーランドを代表する女優。
主要出演作品として『戦争の真の終り』『夜行列車』『尼僧ヨアンナ』『鉄十字軍』などがある。


★ジャン・ルイ・バロー Jean-Louis Barrault (1910.9.08~1994.1.22)



コメディ・フランセーズに所属するなど、舞台演劇・映画を中心に特異な存在感を示したフランスの俳優。
主要出演作品として『ジェニイの家』『天井桟敷の人々』『しのび泣き』『輪舞('50)』などがある。


★ジーン・シモンズ Jean Simmons (1929.1.31~2010.1.22)



1948年の映画『ハムレット』の主演で一躍脚光、特に歴史劇にその魅力を発揮した英国人女優。
他の主要出演作品として『聖衣』『デジレ』『大いなる西部』『スパルタカス』などがある。



『1月21日』

2019-01-20 18:44:17 | 明日は誰の日

【ご命日】

★ジョルジュ・メリエス Georges Méliès (1861.12.08~1938.1.21)



リュミエール兄弟の発明した活動写真を、特撮やトリック撮影によって"見せる映画"に進化させた映画の生みの親。
パリの劇場で手品師として活動していたが映画製作にのめり込み、トリックによる映像の魔術に挑戦して観客を驚かせ
1902年にはSF作品『月世界旅行』を制作して映画監督第一号となった。
主要監督作品として『ロベール・ウータン劇場の夫人の雲隠れ』『月世界旅行』『キーズ公の暗殺』などがある。


★ペギー・リー Peggy Lee (1920.5.26~2002.1.21)



1940年代から50年代にかけて活躍した米国を代表する女性シンガー。
40年代にベニー・グッドマン楽団の専属歌手、後にソロ・シンガーとなり数多くのヒット曲をリリース。
主要歌唱曲として『オン・ザ・サニー・サイド・オブ・ストリート』『ローマの秋』『ジャニー・ギター』などがある。

↓はベニー・グッドマン楽団とペギー・リーの "On The Sunny Side Of The Street"【YOUTUBEより】 



★セシル・B・デミル Cecil Blount DeMille (1881.8.12~1959.1.21)



サイレント時代から脚本家・映画監督・プロデューサーとしてハリウッドに君臨、彼の所属するパラマウント・スタジオは
「デミル王国」と揶揄された。しかし、1950年の全米監督協会の指導者争いでその地位はもろくも崩れ去ってしまった。
主要監督作品として『スコウ・マン』『大平原』『北西騎馬警官隊』『十戒』などがある。

『1月20日』

2019-01-19 17:58:58 | 明日は誰の日

【誕生日】

☆ フェデリコ・フェリーニ Federico Fellini (1920.1.20~1993.10.31)



ネオ・リアリズムの影響を受けネオ・ロマンティシズムという映画作法で新時代を築いたイタリアを代表する映画監督です。
1939年にローマに出て脚本を書き始め、1945年にはロベルト・ロセリーニ監督の『無防備都市』の脚本を共同執筆し、
翌46年に同監督の『戦火のかなた』で脚本と助監督を担当しロセリーニから強い影響を受けました。
1950年にアルベルト・ラトアーダと共同監督した『寄席の脚光』(日本未公開)で監督デビューを果たしました。
フェリーニがその存在価値を世界に知らしめたのは1954年の『道』で、人間の神性と獣性を描きながら純粋無垢な魂を讃え、
イタリアン・リアリズムの原点である現実直視を鋭く凝視しながらも未来に希望を…というロマンティシズムを付け加える
手法を試み、これによってネオ・ロマンティシズムの確立を成し遂げました。
1960年には『甘い生活』で、経済高度成長の一方で退廃化してしまった現在社会の病根を鋭い視線で描いた衝撃作を発表、
1963年には『8 1/2』で現代人の不毛を象徴主義的に映像化して人生の意義を問う自叙伝的作品において、映画の本質は
物語ではなく映像表現であり、いかにして訴えたいこと(魂の叫び)を、映像で表現するかという映像芸術の原点に挑戦、
この成功によってベルイマン監督の『野いちご』に並ぶトーキー芸術映画の頂点を極めることになります。
その後は『8 1/2』の女性版ともいわれる『魂のジュリエッタ』、人間の根源的な欲望を突き止めた問題作『サテリコン』
など話題作を発表し続けましたが、『サテリコン』以降に見られる色彩作品に映像美学を見出すことができませんでした。
モノクロの光と影の対比による映像美学を捨てた段階でフェリーニの映画芸術は終焉を迎えてしまったのかもしれません。

【主要監督作品】
1950年『寄席の脚光』  Luci del varieta (ラトアーダと共同監督)
1952年『白い酋長』  Lo Sceicco bianco
1953年『青春群像』 I Vitelloni 
1953年『巷の恋(第3話)』 L'Amore In Citta
1954年『道』 La Strada 

1955年『崖』  Il Bidone
1957年『カビリアの夜』 Le Notti di Cabiria

1960年『甘い生活』  La Dolce Vita

1961年『ボッカチオ'70(第2話)』  La Dolce Vita
1963年『8 1/2』Otto e mezzo

1965年『魂のジュリエッタ』 Giulietta degli spiriti 
1967年『世にも怪奇な物語(第3話)』Histoires Extraordinaires
1970年『サテリコン』Fellini - Satyricon

(幼少期の頃はサーカスに夢中になり何度も家出して一段に潜り込みその都度連れ戻されたという逸話があります。彼の
映画の断片にサーカスへの憧れが強いノスタルジーとして刻み込まれているのはそういった過去に由来するものでしょう)


☆ ジヨルジュ・プージュリー Georges Poujouly (1940.1.20~ )



1951年の『禁じられた遊び』でミシェル役で子役としてデビューしたフランスの俳優です。
子役として数本の映画に出たのち正式に演技を学ぶために演劇学校に通いましたが、傍役や端役に甘んじ、
1962年の『悪徳の栄え』以降彼の姿を見ることはありませんでした。

【主要出演作品】
1951年『禁じられた遊び』Jeux Interdits

1954年『悪魔のような女』Les Diaboliques
1956年『素直な悪女』et Dieu...Crea la femme
1957年『死刑台のエレベーター』Ascenseur pour L'echafaud
1959年『ひと夏の情事』Une Fille pour L'ete
1962年『悪徳の栄え』Le Vice et la Vertu


☆ レイ・アンソニー Ray Anthony (1922.1.20~ )



1950~60年代にムード音楽の小編成バンド、レイ・アンソニー楽団のリーダーです。
1940年から41年にかけてグレン・ミラー楽団にトランペッターとして参加、41年から米国海軍に入隊し大戦終の1946年に
自身のバンドを結成して独立、ジャズというより軽音楽、特にムード音楽の分野で名を上げました。
1950年にはロニー・ダーヴェルをヴォーカルとした『ハーバー・ライト』が全米15位のヒット、1958年には
ヘンリー・マンシーニのカヴァー曲『ピーター・ガン』が全米8位のヒットを記録していますが、日本では
あまり知られていないようです。また、1961年にサム・テイラーの『シャンゼリゼのブルース』と競合した
邦題『夜に咲く花』も日本でもミニ・ヒットに終わっています。
また、映画『女はそれを我慢できない』『五つの銅貨』などにも楽団としての出演を果たしていました。

↓はレイ・アンソニー楽団とロニー・ダーヴェルの『ハーバー・ライト』【YOUTUBEより】 


↓はレイ・アンソニー楽団の『夜に咲く花』【YOUTUBEより】 




【ご命日】

★オードリー・ヘプバーン Audrey Hepburn (1929.5.04~1993.1.20)



妖精のようなの女優として世界中で人気を博したベルギー生まれのアイリッシュ系英国人。
主要出演作品として『ローマの休日』『昼下がりの情事』『ティファニーで朝食を』『噂の二人』などがある。


『1月19日』

2019-01-18 17:47:50 | 明日は誰の日

【誕生日】

☆ イエジー・カワレロヴィッチ Jerzy Kawalerowicz (1922.1.19~2007.12.27)



アンジェイ・ワイダと共にカードル派指導者でポーランドを代表する映画監督です。
学生時代から映画製作に携わりカードルの指導者となり、戦争中はドイツに占領され戦後はスターリン主義の抑圧を受けて
人々の心が二重三重に屈折した複雑な社会を背景として1956年に『影』を発表して注目を集めました。続いて1957年には
ナチスの強制収容所を取り上げた『戦争の真の終り』、1959年の『夜行列車』においてまだ傷の癒えぬポーランドの心の
ゆらぎと倦怠を夜行列車に乗り合わせた人たちのそれぞれの人生模様に重ねて映像化、そして1960年の『尼僧ヨアンナ』
では、人間が閉ざされた環境で自然な欲求を抑圧されたらどうなるのか、か弱き人間はどう生きるのかというテーマの
もとに、抑圧を強いられている弱者への同情を政治的、思想的な寓意としてすざましい傑作映像を創り上げました。
1961年の『太陽の王子ファラオ』以後は数本の作品を監督していますがいずれも日本未公開でその内容を知ることが
できません。

【主要監督作品】
1954年『セルロース』  Celuloza (日本未公開)
1956年『影』   Cień
1957年『戦争の真の終り』  Prawdziwy koniec wielkiej wojny 
1959年『夜行列車』   Pociąg 

1960年『尼僧ヨアンナ』   Matka Joanna od aniołów 

1961年『太陽の王子ファラオ』    Faraon

↓はサウンド・トラック盤の『夜行列車』【YOUTUBEより】 



☆ シェリー・フェブレイ Shelley Fabares (1944.1.19~ )



3歳でモデルとなり、TVを中心に子役として活躍したサンタ・モニカ生まれの俳優・歌手です。
1958年のテレビドラマシリーズ『ドナ・リード・ショー』に長女役で出演し、1962年には同番組の挿入歌として
『ジョニー・エンジェル』を披露しました。これが好評となりシングル盤としてリリースされ、同年4月には
全米No.1となり一躍脚光を浴びました。
1960年代半ばには『フロリダ万才』などプレスリー映画三本に出演しましたが、鳴かず飛ばずに終わっています。

↓はシェリー・フェブレイの『ジョニー・エンジェル』【YOUTUBEより】 



【ご命日】

★スザンヌ・プレシェット Suzanne Pleshette (1937.1.31~2008.1.19)



俳優研修所で演技を学び、TV・舞台経て映画に進出、『恋愛専科』で一躍スターとなった美人女優。
他の主要出演作品として『40ポンドのトラブル』『鳥』『生きる情熱』『ネバダ・スミス』などがある。


★ポール・ムーリッス Paul Meurisse (1912.12.21~1979.1.19)



ジャン・コクトーの舞台を経験して映画界入り、端役が多かったが映画には欠かせない性格俳優。
主要出演作品として『悪魔のような女』『自殺への契約書』『草の上の昼食』『真実』などがある。


★ドン・コスタ Don Costa (1925.6.10~1983.1.19)



ボストン生まれのイタリア系米国人で、プロデューサー、編曲家、バンドリーダーとして活動。
1960年にリリースした『日曜はダメよ』は米国だけで100万枚を越えるゴールドディスク。


『1月18日』

2019-01-17 18:25:57 | 明日は誰の日

【誕生日】

☆ ケーリー・グラント Cary Grant (1904.1.18~1986.11.29)



イギリス人の俳優の祖父の影響で演劇に興味を持ち演劇一座として全米公演旅行の後にミュージカルでデビューしました。
パラマウントでチャンスをつかみ1932年に『ブロンド・ヴィーナス』でディートリッヒの相手役に抜擢されてゲイリー・
クーパーの後継者として売り出され、イギリス仕込みの軽妙で洒脱な持ち味で一気にスター・ダムを駆け上がりました。
以後、観客が自分と一体化できる俳優としてハリウッドに君臨することになります。
しかし残念なことに、私生活の乱れから1960年代後半には映画界から急に姿を消してしまいました。

【主要出演作品】
1932年『ブロンド・ヴィーナス』  Blonde Venus
1937年『新婚道中記』 The Awful Truth
1938年『赤ちゃん教育』  Bringing Up Baby
1938年『素晴らしき休日』  Holiday
1939年『ガンガ・ディン』  Gunga Din
1939年『コンドル』 Only Angels Have Wings
1941年『断崖』 Suspicion

1941年『愛のアルバム 』 Penny Serenade
1944年『毒薬と老嬢』 Arsenic and Old Lace
1946年『汚名』 Notorious

1955年『泥棒成金』 To Catch a Thief
1959年『北北西に進路を取れ』 North by Northwest
1963年『シャレード』 Charade



☆ ダニー・ケイ Danny Kaye (1911.1.18~1987.3.03)



ブルックリンに生まれ、ヴォードヴィル一座の座員として下積みを続け、1941年にブロードウェイ出演を果たしました。
やがてその独創的なエンターティナー振りが認められて1944年に映画デビュー、以後、コメディアン、歌手、俳優として
映画、TV、ショービジネスにと独自の喜劇の世界を繰り広げました。また、歌手としてはアンドリュース・シスターズと
コラボした1947年の "Civilization" が全米3位を記録しています。さらに1959年の映画『5つの銅貨』におけるサッチモとの
掛け合いによる『聖者の行進』はいまだに語り草になっています。

【主要出演作品】
1944年『ダニー・ケイの新兵さん』 Up in Arms
1945年『ダニー・ケイの天国と地獄』 Wonder Man
1947年『虹を掴む男』 The Secret Life of Walter Mitty
1954年『ホワイト・クリスマス』 White Christmas

1959年『5つの銅貨』 Five Pennies