タンポポには苦い思い出があります。中学校の校長をしていた時のことです。入学式、始業式を終え、子どもたちも教師たちも新たな気持ちで学校生活を始めていました。いつものように登校指導と称して、生徒指導担当や学年主任などが昇降口で子どもたちを迎えます。私も子どもたちと挨拶を交わすのが好きでした。その日も間もなく始業のチャイムが鳴るころ、たくさんの生徒たちが駈け込んできました。チャイムが鳴り終ってから息せき切って駆け込んでくる子もいます。中学校の教師の言葉は時に乱暴です。「ほら、なにやっている。走れ。」「お前、またか。」などなど。子どもたちはそれでも「おはようございます」を言い、昇降口に走り込みます。
そんなある日、私は授業中の子どもたちの様子を見ようと職員室を出ました。2年生の廊下に来た時です、子どもたちの創った短歌が掲示されていました。その一つに目が留まりました。
登校時道のたんぽぽ気になって ふと立ち止まり遅刻寸前
そうなのです。あの朝、息せき切って昇降口に駆け込み、先生にどなられていた女生徒です。私もその子におはようとだけしか声をかけていませんでした。教師は子どもを良くしようとします。それは間違いではありません。でも、教師の思いをぶつける前にまず子どもが何を考え、何を望んでいるのか、その心に添うのが、その心の中の声を聴いてあげるのが教師なのです。
しかし、子どもの心の中を見ようとせず、出てこない声を聞こうともせずに、教師は指導という名のもとにどなりつけることがあるのです。この子の場合もそうでした。
登校時道のたんぽぽ気になってふと立ち止まり遅刻寸前
この子は理科の先生に言われていたのかもしれない。「ぼやっと歩いていないで、今この時期には春の花がたくさん咲いているのだからしっかり見ておきなさい。」と。あるいは、もともと野草に興味を持っていた心優しいこの女の子は、通学路のタンポポの成長を気にしていたのかもしれない。もうすぐ咲きそうだと屈んだのかもしれない。ふと気が付くともうすぐチャイムが鳴る、急いで走り学校に飛び込む。そこに先生のどなる声。そんなに叱られることでしょうか。
このように、教師は昇降口に立って子どもをあたたかく迎えるという本来の仕事をわすれ、子どもの心の中を見る前に、子どもの声を聴く前に、この子を遅刻させまいという狭いものの見方、感情で子どもを傷つけるのです。指導もまた自我であり、利己心から発することもあるのです。そして、教師はこのことに気づかないのです。「子どものために」していることなのですから。
どうしたらよかったのでしょうか。笑って「おはよう」という私の対応で済むわけはないのです。走ってくる子に「どうしたの」と一声かける思いやりがあれば、この子は傷つかなくて済んだでしょう。遅刻しそうになった訳を聴けば様々な答えが返ってくるでしょう。「母の体調がすぐれないので妹の世話をしていました」「登校途中でたんぽぽを見ていました」「おばあさんの荷物が重そうなので持ってあげていました」「腹痛がします」等。
「どうしたの」は相手の気持ちに添う言葉~思いやりの言葉なのです。思いやりとは、自らの考えを押しつけることではなく、相手の思いに沿ってその思いに共感しその思いをともに生きようとする心づかいと行いのことなのですから。
タンポポを見るたびに苦い思い出が蘇ってきます。
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