昨日今日とアンサンブル、個人コンテスト愛知県大会の審査。
昨日は中学校の部32団体、今日は33人のソロ、33団体高校の部を10時〜18時まで聴かせてもらい審査させていただきました。
緊急事態宣言中なので会場にて全て動画審査。
この1年間動画審査を行って気づいた事は打楽器アンサンブルが意外にわかりやすい。
生で聴くと多少ズレていても会場の響きや動きも手伝って誤魔化されるが、動画はズレたり外したりするとはっきりわかる。
もちろんバランスや音色など生で聴く方がいいに決まっていますが、意外や意外新たな発見でした。
ちょっと前の時代、管楽器奏者はテンポに合わせた身体の揺さぶりや見合ってのアンサンブルなど、審査員に不自然な動きは辞めましょうと講評に散々書かれてきたと思うが、この何年かではほとんどが微動だにしない生徒が多いような気がする。
私は音楽的な動きであれば多少揺れてもいいと思う。例えば前へ音を飛ばしたい時は頂点に向かいベルは前へいくなどソロやアンサンブルに必要な自然な動きならあった方が逆に良い。
音大生でも直立不動で電柱に縛られた様な吹き方の生徒は多いがどう動いていいかわからない子が多い。
演奏する動きにはルールは特に無いがその曲に相応しい、音楽に合っていればより効果的な動きであるば良く、ヨーロッパやアメリカの方々もその様な自然な動きを常に演奏に伴う。
ある程度動くことにより身体が硬くならないようリラックスするということもあると思う。
そう、今の学生達はどう動けば良いのかわからないまま楽器を吹き、何か動けと言われれば不審な動きをして、また違うと指摘されるという負のスパイラル。
避けたい動きの代表例は
まず小刻みなテンポの動きは無い方がよい。
また両足の関節を折り曲げテンポを取るのも良くない。
ベルをクルリと回してリリースを切る動きもない方が良いなど、この考えられる3つ以外ならある程度リラックスする為の身体の動きは必要ではないかと思う。
それらも表現力に大きく関係してくるから。
話は変わりますが講評に毎回書くことは表現する事の大事さ。
ここからはぶつ切りで色々思ったこと。
■この曲は、どの時代に書かれたもの?作曲家は?タイトルは?どんな雰囲気?どう感じるか?フレーズは?頂点はどこか?フレーズの終わりは?暗い明るい?朝昼晩?春夏秋冬?どんな感触?全体のどこが山場?喜怒哀楽で現すと?等、吹きて本人達にインタビューしたい思いだ。
■都会の子と田舎の子でも頭で描くイメージは変わってくるだろう。
地下鉄、ビル街で育った子と海や山でいつも遊んだ子でもイメージは変わってくるかもしれない。
洗練された空間、オシャレな店、地下鉄の匂い、映画館...
土と草の匂い、海水の苦さ、木登り、サンライズサンセット...
これはどんな環境で育っても鋭く敏感な人は敏感なのだろうと思う。
■小学校の国語の授業、1人ずつ当てられて順番に教科書を朗読させられる事があった。
ほとんどの生徒は一本調子の棒読み、でも時々感情を込めて表現する子がクラスに1人くらいいた。
でも大概その子はクラスから笑われる。
なんか人と違う、なんかおもろい、と言った理由で。
私も棒読みの一員だったがその感情を込めて表現する同級生に憧れもあったのはよく覚えている。
元々人前で表現する事が苦手な日本人が個性や表現するものを余計に排他的にしてしまう事は多いのではないかと思う。
■日本のソロコンクールでヨーロッパの審査員が日本人は皆同じような演奏をするねと笑い話になる。言われた生徒はとても悔しいが同じくらい先生達も悔しい思いをする。
■私のクラリネットの生徒でミュージカルを同時に勉強し始めた子がいる。
ミュージカルで人前で演技して歌うことにより、クラリネットの表現も大幅に変わっていき、音までも自由になり良くなった。
■感受性(インプット)と表現(アウトプット)のバランスがとても大事。
インプットだけでは成長に繋がらない、いくら受けるものが多くても出さなければ無いと同じ、その逆も然り。
アウトプット量が多いほど運動と同じで成長に繋がる。フィードバックは必要ではあるが。
■楽器を持ち始めた中学生や高校生にこういったことを表現させるのは酷で難しいことなんだろうか。人生経験の豊富な大人が子供達に伝えなければという事が沢山あるだろうし、逆に子供達から純粋さを教えられる事も多い。
昨年今年のようなこの状況では満足に楽器を練習できる時間と環境が無かったので楽譜通りに演奏する(音を並べる)のが精一杯であったことは仕方ないでしょう。
■楽器を演奏する上で基礎や技術はとても大事である。表現する事は技術でもあり、技術がなければ表現できない。
音楽のジャンルである以上、表現する事の大切さは同じくらい無くてはならないもの。
演奏者は表現者なのですから。
魂が宿る音、魂が宿る演奏を!