ことのはのはね~奈良町から

演劇、アート、短歌他、町家での出会いまで、日々を綴ります。

短歌体験は演劇から~寺山修司のセリフ 

2016-08-20 | 短歌
「短歌」…と言われても…というのが、一般の方の「短歌」と聞いた時の印象かなと思います。暮らしの話題にはまずのぼらないし、過去のもの、という印象もあるでしょう。かくいう私もそうでした。自分が詠む、歌をつくるなんて、思いもしなかったです。歌人、前登志夫先生に出会わなければ、関係ない世界でした。ただ、今思えば、「短歌」体験は、前先生に出会うよりもっと前、「演劇」が始まりだったように思います。詩人、歌人、映画監督、競馬評論家、劇団主宰者、シナリオライター、作詞家、などなど八面六臂の活躍をしていた寺山修司、その寺山の演劇に「短歌」を感じたのがリアルな短歌体験の一歩でした。寺山の主宰する「演劇実験室天井桟敷」の解散公演を、十代に見られたことは本当に幸運でした。寺山は劇中歌をよく作っていますが、この劇中歌が劇の「調子」を作り、しかも、セリフそのものが、歌の調べの延長にありました。もちろん、私は当時、寺山が歌人であったとも知らず、ただ前衛演劇の第一人者という認識でした。ところが、なんだかセリフは前衛というよりは、祖母が良く聴いていた、「浪花節」のような感触があり…不思議と馴染む感じがしたのを覚えています。もちろん、劇の内容はシュールで、演出も幻想的なんですが、「セリフ」は耳に入ってくるというか…残る。調べが残るのです。どちらかというと、演劇実験室天井桟敷は、「実験」とあるように、びっくりするような仕掛けや演出で、ヴィジュアルが先行する印象もあり、海外の招聘も多く、もしか「言葉」なくても通用するかも?などと漠然と思っていました。ところが。寺山が死に、劇団が解散し、名前を変えて「万有引力」という集団になり、その旗揚げ公演を見た時、演劇の方法論は変わらず、出演者も重なり、見た目はあまり変わらないのに、何かが決定的に違います。それは、寺山の言葉がない、ということでした。あの寺山の独特の調べ、セリフがないと、なんとも中心がないような、何か生まれる元になる種がないような、物足りなさを感じました。寺山の言葉は強い。その後、彼の歌を読んで、ああ、既に劇的空間は、歌人寺山の中に、言葉として確立されていたんだな、と思いました。だから、セリフが強いのだと。短歌の調べが、地下に潜った情念を現代につれてくるような…寺山の演劇の真骨頂は、そのセリフの調子にあったと、今つくづく思います。その後、いろいろ芝居を見る中で、やはり調べのある「セリフ」は、「詩」を持っているということも強く感じるようになりました。唐十郎の紅テントのセリフ、これも独特の言い回しと高揚感があります。戯曲というのはまさに「戯れる」「曲」なので、音として耳に残るセリフの「調べ」はとても重要でしょう。
では寺山修司の戯曲の一節を。戯曲『書を捨てよ、町へ出よう』より

「一番高い場所には何がある?嫉妬と軽蔑、無関心と停電の時代を目の下に見下ろして、はるかなる青空めざし!どこへ行こう?どこへ行こう?どこへ行こう?どこへ行こう?」
『テラヤマワールド』裏表紙

…本当に「歌」ですね。歌わざるをえない、セリフです。
こんな後に自分の戯曲の話をするのは何ですが、私の場合、核になるイメージが決まると、割合、よどみなく「ドドドドドー」とセリフがやってきます。このセリフがやってくるスピード感が、調べになっているように思います。
ところが、短歌は私にとって、まだまだセリフのようにはいかなくて…。けれども第一歌集『ラビッツ・ムーン』を上梓しました。その『ラビッツ・ムーン』から、今日は演劇の歌を。

壊された舞台の上にちらばるよ。あれはまことの雪であったよ。   おの・こまち