ことのはのはね~奈良町から

演劇、アート、短歌他、町家での出会いまで、日々を綴ります。

「ならのはこぶね」~東アジア文化都市2016奈良市 高校生と創る演劇を見て

2016-12-24 | 演劇
今年、奈良では「東アジア文化都市」イベントして、メインに八社寺を中心に現代アートの展示があり、奈良町にぎわいの家で行われた様子はもこのブログでも何度かお知らせしてきました。さて、その演劇部門の地元参加型の企画が、「高校生と創る演劇」です。指導、作、演出は、青年団の田上豊さん。で、結論から先にいうと…良かったです。奈良時代をテーマにした芝居は、カムカムミニキーナや地元の劇団が、藤原家の四兄弟や長屋王をモチーフにした芝居を見ましたが、本日の芝居が1番よくわかり、しっくりきました。
田上さん自身が奈良の人間でない、というところが良かったのかもしれません。奈良時代をテーマにとなると、地元では我が里なので、平城京はまずは素晴らしい都という前提からドラマは始まってしまうきらいがあります。以前、平城遷都1300年祭の前に、大仏をテーマにした芝居が何かできないか、というお話がありました。その時、私は「大仏は素晴らしいが、書き手としての気持ちは、大仏を作るのにどれだけの人間の力がいったか、苦労したか、そちらの方に気持ちが向く。」と伝えたことがあります。これは書き手の価値感によると思いますが、文字に残った歴史はある種、為政者側の物語である側面は否めません。けれど、国の民の多くは、ほとんどが名も無き人であったのです。既に歴史が書かれたものとしてあるなら、少なくとも、書き手としては、物言えぬ人たちの声の方が魅力的だし、そちらの声が聞けたらいいなといつも思います。
今回の芝居の骨格が、「素晴らしき平城の都」でなく、万葉集の憶良の「貧窮問答歌」をイメージの主軸において、ざっと奈良時代の特徴を漫画チックに解説し、しかし、根底として、本当に生きるのに大変な時代だった、ということを演劇を通して知った高校生は、とても意味のある体験になったと思います。
さて、個別に見ていくと、いろいろ気になるところもあります。こういった、時代を解説しながらドラマを進めていくスタイルの芝居が難しいのは、一人一人の出演者の顔がなかなか見えないので残念というところです。高校生の皆さんは、よくこの短時間で声も動きも磨いたと思いますし、これは指導者の力量ゆえと思います。ただ、ある一定の形にするためには、最低のレベルの発声や発音がいるでしょうが、みんな同じ声になってしまうのは、なんだか残念な気がします。もちろん、高校生がそれぞれの独自の「ま」を持てるはずもないのですが、それぞれの高校生の面白みが欠けていたように思います。一人、「白鹿」役の子は、面白かった。役が美味しいというのもあるけれど、演劇的に矯正されない個性があって、それが面白かった気がします。
そして、話の展開ですが、細かいところでツメの甘いご都合主義的な話の展開は、いくつもありました。それが演出のうまさであまり気にならなかったので、それはそれで成功かなと思います。ただ、こうした、現代から古代へワープするお話の場合、過去へ遡るためのきっかけ、その道具だてには、かなりの配慮がいると思います。今回、主役級の女の子が突然倒れ、そこから過去に行くのですが。この「倒れた」だけでは、物語としてはかなり甘くなります。何か、一つ、必然がいります。この場合、最後まで出てこなかった「鑑真」こそが、過去へのきっかけとなると思いますが、そういう構造にはなっていなかった。つまり演出のテンポで時代とシーンが変わるのを見ていく感じになります。これだと、
シーン展開は面白いけれど、一体、この主人公たちは、行き当たりばったり、何をしているのだろう、といった感覚になります。ドラマとしてはこのあたりが弱かった。
「構造」という言葉を書いたので、さらに書くと…。この芝居は、現代の高校生が奈良時代の芝居を作る中で、過去の奈良時代に入るという、時間軸の構造が一つあります。もう一つは、時間軸と関係無い普遍的な構造があり、これこそが、この芝居の1番、大事なところでした。それが「鑑真」です。「鑑真」は遣唐使たちにとって、日本を救う聖者として、何度も芝居の中で言われますが、実際には最後まで出てきません。この芝居の始めのシーン、現代の高校生たちが奈良時代の芝居を作るというシーンのキャスティングに、誰が鑑真かというと、不登校で学校に来ていない人物が、鑑真とわかります。ところが、この不登校の子が鑑真という役回りであるということは、さらっと流されてしまって、あまり強く印象に残りません。けれど、この「不登校」の子が「鑑真」であるという構図が、非常に現代的であり、遣唐使たちの「光」の存在につながるというところが、何よりのオリジナリティを感じました。ただ、これは私が感心しただけで、正直、この芝居の流れの中では、この構図は描き切れていないし、記憶にも残りません。なぜかというと、高校生の生身の身体に圧倒されて、情緒や観念が薄らいでしまうのです。この元気さがなければ、高校生ではないけれど、やはり「不登校」と「聖者」を結びつけるためには、肉体のみでない、何かが必要でしょう。それは高校生たちの内部の表現力の問題にもつながる難しいところです。
それにしても良いものが見られました。奈良で演劇をするものとしては、どうか、これからも「演劇」に興味をもち、生きることの大切なものの一つになっていってほしいなと思います。