ことのはのはね~奈良町から

演劇、アート、短歌他、町家での出会いまで、日々を綴ります。

オリンピックのこと~②開会式 他

2021-07-29 | その他
オリンピック、選手の皆さんの活躍はすごいですが、仕事柄?「顔」ばかり見てしまいます。前回のリオ五輪の時は、ウエィトリフティングで銅メダルを取った、三宅宏美選手の「顔」のことを、このブログでも書きました。→オリンピックの顔 - ことのはのはね~奈良町から試合前の顔、試合中、試合後…。ずっとテレビの前にいるわけでないのですが、前回の三宅選手の顔のような印象に残る顔に、また出会えるかと思います。今回、三宅選手はメダルは残念でしたが、何というか、バーベルを持った瞬間から不思議な憂いがありました。選手が仕事を終えてゆく予感のようなものを「顔」が語っているような…。スポーツ選手の今が盛りの活躍を拍手もすれば、一方、三宅選手のように、終えてゆくものの姿を見られるというのも、日頃、スボーツ観戦しない者にとっては、オリンピックの醍醐味という感じもします。負けて敗れることは、本人には苦しいに決まっていますが、その時にこそ、生きているなという感覚が妙にきわだってくるように思えてなりません。
こうした選手、個々人の活躍に、エールを送りたいと気持ちが湧くのは、どんな状況でも変わらないし、自然な気持ちと思いますが、ただ、この度のオリンピックは、事前のドタバタがあまりにあり過ぎて、そして、それは「言葉」の問題を強く抱えるもので、「今」の私たちの社会の現況をまま、表しているようでした。今後、優れた書き手が、令和のオリンビックのまとめを書いてくれることに期待します。私は、演劇の舞台につながるような開会式のことを。
元々の開会式制作チームメンバーが大幅に変わり、直前に差別や人権問題に関して辞任が続き、それでも幕を何とかあけた開会式。何とか開けただけでも、大変な苦労があったと推察しますが、全体の印象としては「物語」や「詩」がなかった、ここに関しては、チームメンバーの変更とか通り越して、開会式の骨格の問題としてあげたいと思います。
「言葉」が不在だったのです。以下、何となくの印象ですが、演劇の世界も、90年代以降、演出家の時代でなかったかと思います。宮本亜門や蜷川幸雄など優れた演出家の活躍もあってのことです。要は大きな作家や戯曲が不在?だったのか、そうとも言えないでしょうが、時代の傾向としては、「何を語ってくれるの?」よりも「どう見せてくれるの?」に、視線がいったのではないかと感じています。「物語」を理解する忍耐?はなくなり、一瞬に目立ちわかりやすいものに惹かれる傾向は、令和になって更に加速しているのでは?要は、語る言葉がなくても、ショーはなりたつのです。
そのことを今回の開会式で強く感じました。全体をつなぐイメージの根幹となる「言葉」が不在なので、パーツごとの商品をそれぞれ、見ているような感覚です。パーツが出てきても、それぞれのイメージを組み立てる「言葉」がないので、全体がみえません。ダンスも祭も歌舞伎もジャズも映像もあった、でもそれで?
今ここでいう「言葉」というのは、開会式に具体的に「言葉」を発してわかりやすくする、というのとは違います。私の言っている言葉は、まず「詩」や「物語」を書き上げて、そこからのイマジネーションによって、全体を組み立てていくということです。「詩」や「物語」にメッセージがあれば、それに基づいて、各シーンのスペシャリストは、「言葉」のイメージからそれぞれの世界を創りだしていくことでしょう。ところが、今回は、まず「材料」が先にあって、それをつなぐものが全くなく、世界に日本を発信する最大の機会が、メッセージを感じられないものになってしまいました。いや、メッセージは「イマジン」だよ、となる?それはあまりにジョンに失礼。ジョンとヨーコが人生をかけて訴えてきた、LOVE&Peace。その精神を、日本からとなるなら、今、令和の日本が「イマジン」を咀嚼して、新たな姿を見せるべきではと…中学の時にジョンのLPを買って聞いてきたので、とても個人的になりますが、「イマジン」を歌えば平和なムードになるでしょう、みたいな演出は、なんだかなあ…という気持ちになったのです。
「言葉」の問題に戻ります。元々、開会式の組み立てにまず、何が必要かというところで「詩」や「言葉」のスペシャリストに頼もうという空気が、そもそもなかったのでしょう。「どう見せるか」で「何を伝えるのか」がなかった。骨格を創る時に「言葉」を必要としないということなのか。いや、もう骨格はいらないのか。骨がなければ、私たちは立っていられない。「平和」や「平等」というオリンピックにつながる精神を私たちは享受しているが、元より、それは初めからあったものでなく、多くの先人が「言葉」を積み重ね思考し、それをもとに行動し、血と汗を流して「発明」してくれた概念です。その骨格があるからこそ、私たちは自由で自分が自分でいられる。この骨格が当たり前すぎて、末端しか見えていないのでは…。
開会式に「詩」や「物語」がないと言いましたが、それは日本側の演出の部分のこと。選手の入場シーンは、もうそれだけで「物語」があって、見入ってしまいました。なんという晴れ晴れとした顔、お国柄を表す衣装、ああ、良かった、なんて素敵だと、入場を見ながら心が踊りました。やっと、生きている人間の「顔」が見られました。また、スマホで撮影し、お菓子も食べていたり。そうよね、そりゃあ、写真もとりたいでしょう。日本選手団はスマホ禁止でしたが、私も日頃はあまりスマホに諸手を挙げて賛成していないけれど、開会式の海外の選手のスマホには、なんだか微笑ましくて。
というわけで、入場が開会式の華でした。世界は広く多様な人たちからなっている。オリンピックはそんな人たちの出会いからなっています。





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