ことのはのはね~奈良町から

演劇、アート、短歌他、町家での出会いまで、日々を綴ります。

12/8朝日新聞夕刊「都ものがたり」から~歌人・前登志夫のこと

2016-12-10 | 短歌
吉野から歌を発表し続けた、日本を代表する歌人、前登志夫。先生の特集が先日の朝日新聞に掲載されました。(デジタル版はこちら→http://www.asahi.com/articles/DA3S12697492.html)
全国版の「都ものがたり」というシリーズです。これまで「奈良」枠で取り上げられたのは、法隆寺で漫画家の山岸涼子(『日出処の天子』はリアルタイムで読み、盛り上がりました!)、薬師寺ではこれも漫画家の手塚治虫(『火の鳥』は奈良が舞台!)…そして吉野が前登志夫!でございます。「都ものがたり」の「都」を考える時、「吉野」をと考えて下さった朝日新聞の担当の方。吉野は南北朝もそうですが、なんというか、桜の都?!にふさわしい、歴史と深さが単に「首都」的な「都」というより、心の「都」的なものを感じたりする土地ですね。
さて、こちらの取材は急に決まり、実際に前先生のお宅への取材が11月末と慌ただしかったのですが、大雨で写真がとれず、次の日に出直して写真を撮られたとのことで、新聞の写真も靄でちょっとけぶった感じがしていました。ふわあと夢の中に山が漂うような感じでしょうか。
前登志夫は「今西行」と言われ、あの西行法師に重なる大きな人ですが、その西行は「願はくは 花の下にて 春死なん そのきさらぎの望月のころ」(願わくば、桜の下で、如月は満月のころに死にたいものだ)と歌いました。如月というのは、今なら4月初め。前登志夫は、この歌の通り、まさに4月初めに亡くなりました。西行の思いと重ねた人生を全うしたわけで、この時期に私たちは師を偲んだ「偲ぶ会~樹下山人忌」を毎年、開催しています。
さて、この吉野の桜のイメージとは別に、先生にはもう一つ大事な吉野の「核」があります。それは「尻尾」。尻尾って何?って感じですよね。今回の記事は、こちらの「尻尾」からの前登志夫を探った内容になっています。掲載誌より紹介します。

「吉野の真の魅力の根源は生尾(せいび)の光につきる」と前は記す。「生尾」とは、「古事記」に描かれた吉野土着のしっぽが生えた神々。故郷の山に「超人的な神秘的な霊性」を感じ取り、単なる自然賛美でない前の歌の根底を流れる。」

さて、奈良では「記紀万葉プロジェクト」が続き、私も古事記を題材にファンタジーを2本書き、ラジオドラマとして放送しましたが、その古事記には、吉野の国つ神(土着の神)として、石押分之子(イワオシワクノコ)、井氷鹿(イヒカ)、贄持之子(ニヘモツノコ)が出てきます。このうち、イヒカは「井光」とも書き、「光る井戸から尾がある人が出てきた」という記述があります。先の前先生の「生尾の光」はここからくるものです。

あの美の目利きの御大、白洲正子は、前登志夫の著作『森の時間』について、「石押分之子(イワオシワクノコ)の神語り」と書き、それを前先生はとても喜ばれていました。お二人の対談(白洲正子著・『おとこ友達との会話』)からもわかりますが、先生は、こうした土着の神々の力を現代に甦らせた歌人であると思います。

ところが、「尻尾」というと、まるで動物で神様ではないというようなイメージもあるかもしれませんね。でも、それは「人間」を頂点とした文明のヒエラルヒーの中の話で、そもそも地球の時間で考えたら、「尾」のあるものたちが長年、この星を生きてきたのですから、そのほんの端っこに人間がいるのだし、そもそもは私たちは大きな顔が出来ないと、思ってしまいます。前登志夫の大きさは、おそらく、私たち人間の一瞬、点のような文明の時間など遙かに超えて、それ以前の長い生命の営みと、歌で交わり、その息吹を生き生きと、現代に伝えるところでないかと思います。1300年の歌の歴史と同時に、それ以前の時間をバーチャルでない肉体感覚をもって、歌に出来るというのは、山の仕事に実際に携わり、その大きな体で汗を流した、まさに「山人」の力によってでしょう。そこのところを、朝日新聞では「山の神々に魅せられ 根源問う」という見出しであげていました。

私たちの生きてきた時間軸を、大昔まで引き延ばして考えれば、まあ、もうちょっとゆっくり、となるのでは。若い人たちへ、前登志夫の山を見てほしいなと思います。









にぎわいのクリスマス&親愛幼稚園の思い出

2016-12-06 | にぎわいの家・奈良関連
町ではクリスマスグッズが華やかですが、今年は奈良町にぎわいの家も、クリスマスリース&ツリーをしつらえました。リースは全部、スタッフの手作り、ツリーはオーナメントは全て手作り。リースは藤蔓などで形作ったかなり大きなもの。格子につけると木の町家もなんとなく、彩りがあって華やぎます。このところ、道ゆく人たちの撮影スポットになっているんですよ。ツリーのオーナメントもなるべく今あるもので工夫して作りました。いただきものにかかっていたリボンを使ったり、家にあった毛糸を使ったり…。こういう手作業をしながら、こうかな、こっちが素敵かな、など話しながら手を動かすのは楽しいですね。小学生の時から編み物が好きでしたが、もうずっと編み針を持ったことがなく久々に今回、飾りを一つ作りました。ちょっと気持ちがほっこりしました。
さて、クリスマスはそもそもキリストの生誕を祝うもので、どちらかというと、日本ではハロウィンやバレンタインと一緒で、イベント的な感覚があります。それが、なんとなく暮らしに身近になったのは、息子たちがお世話になった、親愛幼稚園のおかげでした。
親愛幼稚園は、近鉄奈良駅すぐの東向き商店街の中にあります。何気に商店街を歩いていると通り過ぎてしまいますが、石段を上がると、そこはもう別世界。木の礼拝堂に保育室。興福寺の真下にあたり、園庭横の小さな森のような空間で隠れん坊すると、すぐそこが商店街とはとても思えない、不思議な感覚になります。
この幼稚園は1930年に設立されました。その頃の木造の建物です。教会というと、洋風なイメージがありますが、こちらの礼拝堂は、なるほど、奈良だなと思わせる建築です。「ノアの箱船」を返した形と聞いたのを記憶していますが、本当に、まるで船のような大きな空間で、息子たちはここで礼拝を受けながら、いろんな言葉や歌を共にうたいました。毎週土曜日は親子礼拝があり、私たちも子どもと一緒に歌いました。その中でも特に心に残る歌があります。それは
「1 空の鳥は 小さくても お守りなさる 神さま 2 わたしたちは 小さくても お恵みなさる 神さま 3 悪いことは 小さくても お嫌いなさる 神さま 4 愛の業は 小さくても 喜びなさる 神さま」という歌で4番まであります。1番から4番まで、「小さくても」という歌詞があります。この「小さい」という言葉、小さいものこそ恵まれるよう、というような祈りを、園児と共に歌う中で感じたものです。
こうした時間を子育て中に過ごせたことは、とても有り難く、結局、この幼稚園で出会ったお母様たちとのつながりが今もずっと続いています。そもそも、小町座という演劇集団も、この幼稚園から始まりましたが、それはまたの機会に。
興福寺の真下に、重要文化財の教会があるということ。奈良ならではですね。そういえば、長男のころ、幼稚園のマラソンは興福寺の境内を走っていました。のんびりとした時代でした。そういえば、幼稚園の石段を登るタモリさんがいましたね。昨年のブラタモリのワンシーンでした。
にぎわいのクリスマスは25日まで。格子のリースと通り庭(土間)のツリーを見にきて下さいね。

 親愛幼稚園礼拝堂

 格子のリース

 にぎわいの家ツリー







歌集『ラビッツ・ムーン』批評会

2016-12-01 | 短歌
私の所属する短歌結社は「山繭の会」と言い、歌誌『ヤママユ』を刊行しています。吉野から歌を発表し続けた、日本を代表する歌人、前登志夫が主宰した短歌結社というか「歌と民俗の集団」です。ヤママユは漢字の通り、「山繭」。蛾の「山繭蛾」のヤママユです。この蛾は光を紡ぐ、特別な蛾です。普通の蚕は白い糸をはきますが、ヤママユ蛾は、光合成をして綠色の糸を作ります。できた糸はさわやかな綠色、素朴な光沢の、なんとも良い色なのです。私はヤママユに入ってから、この光を紡ぐ虫のことを知りました。それから改めて、「ヤママユ」という言葉は、特別なものになっています。
さて、歌の集団のヤママユは、各地で歌会を開催しています。現在は、奈良、東京、大阪、京都、神戸とヤママユの各地のメンバーが集まり、前登志夫の研究と、自分たちの歌を批評し合う歌会をしています。私は、奈良歌会に参加しています。
その奈良歌会が中心になって、11/30、歌集『ラビッツ・ムーン』の批評会を企画してくださいました。いつもお世話になっている奈良歌会の皆さんに、私の大学の恩師であり、短歌結社「白珠」の撰者、そして国語学の専門家である、歌人の小谷博泰先生も来て下さいました。(小谷先生には大学の時、寺山修司で卒論を書かせてもらいました。今年、第九歌集!「うたがたり」を上梓され、歌も批評も学問も益々盛ん!)
さて、批評会は『ラビッツ・ムーン』の中から、好きな歌を五首選び、そこから感想や意見をいただくスタイル。
一番、票が集まった歌は

水のようなドレスが着たい月の夜 光目指して烏賊昇ります

ちょっとメルヘンな感じですが…烏賊は私には身近でこの歌となりました。かつて父は、烏賊漁に毎晩出航しました。船の上ではかなりの光をたき、それにひかれて烏賊は上がってきます。そこをとるわけです。なんだか烏賊には申し訳ないですが…。満月の夜は、明るいので、船上の電灯の効果は半減すると、父が言っていました。光に向かう烏賊はあの細長い形状が、水面をめざすので、独特で不思議な感じがします。月あかりにひかれて昇る烏賊の姿…水面を越せば死んでしまうけれど…そんな危うさを思いながら。

二番目は三首ありました。

ぬか床の釘はどこへやったかと祖母は時々夢で尋ねる
薪背負い山道何往復もした祖母の力は火を焚く力
火が水のにおいを連れてくるような蝋燭燃えるかまくらの中

祖母と火の歌です。明治生まれの祖母からは夜寝る前に、村にまつわる話や、家の話などいろいろ聞いたものです。民俗学の折口信夫にたしか「感染教育」という言葉をみたと覚えているのですが、つまり口述、口で伝えて感化していく様と理解しています。夜に聞くお話はまさにそうで、明治の祖母の話を聞いたからか、私には100年前の話も、嘘ではない、つい、そこにあるような気持ちに今もなります。毎夜、隣で寝てくれた祖母と対称的に、もう一人の祖母は師範学校の学生でテニスをするような人でした。こちらの祖母とは小さい時から文通をしていました。耳元で語る祖母と文を書いてくれる祖母。歌の祖母は前者ですが、明治生まれのタイプの違う二人の祖母は、何をする時にもどこかに今もいます。

三番目の歌

葉も花もつけないままに枯れてゆく木がある僕の真ん中にある
泥団子磨く子どもの手の中にふうわり生れる光があるよ

こちらは自分が子どもを持ってからの歌です。

さて、批評会で指摘されて、ああ、そうだったんだと思ったのは、「光」についての歌が多いということ。自分では意識してないのですが、確かにそうです。
関係ないかもしれないですが、息子達の通っていた、プロテスタント系の幼稚園のお祈りの言葉に「光の子らしく歩きなさい」というものがあります。私は宗教には疎いながらも、何かしらこの言葉は子育てする中で「お守り」のように働いていたのかもしれません。

参加いただいた皆さんは、周知の方ばかりで、だからこそ、有り難くて。特に私が歌を続けていられるのは、ヤママユ編集委員の喜夛隆子さんのおかげなので、御礼をいう時に、母のような姉のような喜夛さんと言いながら、感極まってしまいました。鬼の目にも涙?!でございます。

それから、こんなことを言ってくださった方も。「あなたは、その人物がとても面白いのに、歌にそれが出ていない。」…確かに。歌より人が面白いは嬉しくもあり、いや、歌人となると、それでは困る?!
ともあれ、本当に嬉しくて。お世話下さった皆様、ご参加いただいた皆様、ありがとうございました。