コロンブドール

Les Films de la Colombe d'Or 白鳩が黄金の鳩になるよう人生ドラマを語る!私家版萬日誌

「大奥」絵島殿 高遠遠流 暮らしと藩士の温情 

2006-06-05 | アイであるモンド文献-大年寄 絵嶋
「大奥」大年寄り絵島殿 高遠遠流 暮らしと藩士の温情
 

享保四己亥年八月

一、絵嶋殿居所寒国その上山方に付き、冬に至り殊のほか寒く、壁
  なども落ちだんだん破損仕り侯へども、女中の義に候へば時々
  の修復致しがたく迷惑仕り候、これにより、苦しからざる儀に
  候へば城下に差し置き申したく存じ候、城下は人向きもよく、
  余り氷等も強く御座なく候に付き申し上げ候、苦しからず思召(おぽしめ)
  し候はば御考へ遊ばされ、河内守様へ御内意御伺ひ下され候や
  う仕りたきの旨、下総守どの申し上げ候ところ、御心得なされ
  候由御考へ候へども、御覧なさるべく候由、仰せられ候
一、廿八日下総守様御出で仰せられ候は、先頃申し上げ候絵嶋居所
  の儀、河内守様へ仰せ上げられ候ところ、今日御書付をもつて仰
  せ聞かされ候、すなはち御書付御持参御渡し成され候、左の通り
    亡父駿河守の時御預りの絵嶋の事、領分城下より壱里程も
    隔て差し置き候、雪国その上山中にて、附け置き候家来共
    難儀致し候に付いて、今少し城下辺りへ差し置きたき由、
    さ候はば、相応のしまりよき処に勝手次第差し置き申すべ
    く候、以上

                   内藤伊賀守家来
                     この通り張り紙

   右大奉書半切
  右御請け三郎右衛門相勤める


                          「江嶋卸預ヶ記」より


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
高遠に遠流になた絵嶋殿は、はじめ城下から一里四キロほど遠くの在
三峯川上流んの非持村(現 長谷{村})平栗 の物置を改造した囲い屋敷に
幽閉されそうです。                  
しかし六年も過ぎては、元々在にあった物置ゆえ傷みが甚だしく、女中が部屋に入るも
容易ではなく、修理さえもままならない状況だったそうです。
        非持村 平栗(伊那市長谷溝口)付近地図
                       この神田橋付近か?または湖の下か?

 みかねた藩は内藤伊賀守名において上記のようなお伺い書を差出、
下総守様をとおして許可の回答を得、
城下 五町離れた三峯川断崖上の花畑に、平栗のような囲み屋敷を造り、
幽閉されそうです。
 高遠藩士の絵嶋殿に対する御慈悲所以なのでしょうか・・・・・。
         高遠 花畑 付近地図
            城下すぐで蓮華寺からは0.8から1kmくらいの距離です。
                     実際、歩いてみましたらすぐでした。


 実際は、高遠藩の財政窮乏による、人件費の削減が主な要因だったようですが、
日々精進の絵嶋殿の様子を観ている藩士はさぞかし温情を与えてやりたくなったのでしょう・・・・。

      高遠 絵嶋殿囲み屋敷
===================================

 今後、古文書では「絵嶋殿」と多く書かれていますので
    「絵嶋殿」で統一させていただきます。

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注  享保4年 八月(旧暦) =  1719年 九月(新暦)
   絵嶋殿 39歳

  写真は、再現された高遠 絵嶋殿囲み屋敷 での絵嶋殿が幽閉された八畳間
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高遠へ 中野堀の内街道童学童疎開ー1

2006-06-05 | アイであるモンド文献-銃後の時代
                     ー蓮華寺 山門から本堂ー 
中野の学童疎開
             
桃園国民(小)学校 学童疎開児童数 合計 318名  
        (昭和19年8月23日~昭和20年11月20日まで)

 長野県上伊那郡 宿 舎       生 徒 数       疎開先小学校
    伊那富村  長久寺            58名       伊那富小
            明光寺
   
   三義村   山室鉱泉・元湯旅館  男子55名
           矢島旅館          女子43名

   高遠町     建福寺      五年女子43名
            満光寺      四年女子30名
            桂泉院      四年男子22名
            峯山寺      三年男子17名
            蓮華寺      五年男子50名

   美和村      常福寺           50名       美和小

   伊那里村    円通寺           50名       伊那里小
     
             参 考 高遠 まち歩きマップ 疎開先お寺所在地

本郷国民(小)学校 学童疎開児童数 合計 462名  
                昭和19年8月29日~昭和20年3月)
          

 長野県諏訪市
   上諏訪町  富貴の湯旅館 竹ノ湯旅館            高島小
         諏訪旅館   喜樂旅館   

 {再疎開}    (昭和20年3月)~昭和20年11月15日まで  
   本郷村 湖南村  高栄寺 善光寺               湖南小

        注 昭和20年1月 第二次疎開開始

               「中野の戦災記録写真集」中野区発行 より

今年、高遠の小彼岸桜を観に行ったお寺は全て、地元の子供たちが戦時中学童疎開したお寺だったとは驚きです!!
また「中野の戦災記録写真集」で絵嶋さんが永眠されています蓮華寺で学童の様子が載っていて、この子らをを引率した若先生からの目で当時の様子を詳細に述べられていました。
これも、何かの因縁なんでしょうか・・・・。
 
 写真は ー蓮華寺山門ー 当時と変わってないはずです。
疎開した児童たちは毎日この山門をくぐり、蓮華寺の急な階段での上り下りのように、
苦しい生活に耐えていたのをこの山門は温かく見守っていたのでしょうか・・・・。

          桜 探鳩 - 高遠5 蓮華寺
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