「大菩薩峠は江戸を西に距る三十里、甲州裏街道が甲斐国東山梨郡萩原村に入って、その最も高く最も険しきところ、上下八里にまたがる難所がそれです。標高六千四百尺、昔、貴き聖が、この嶺の頂に立って、東に落つる水も清かれ、西に落つる水も清かれと祈って、菩薩の像を埋めて置いた、それから東に落つる水は多摩川となり、西に流るるは笛吹川となり、いずれも流れの末永く人を湿おし田を実らすと申し伝えられてあります。ー
中里介山著 未完の長編小説「大菩薩峠」書き出し
先週、ついに大菩薩峠に行って参りました。
やはり古くから人々を魅了する御山としているその何かを知りたく機会があればと思っていた・・・。
秋の気配を里で感じ、思い立ったように目指しました。確かに何か人を引き付ける”もの”がある気配を感じてきましたので今回からカテゴリを立て少しづつ検証したいと思います。
今回は里では秋の紅葉が感じ始められる季節となりましたが、ネットでの大菩薩峠情報は真っ盛りとのことでしたが、私が行った日には峠、付近ではすでに過ぎたようでした・・・。
しかし、この日は天気予報では晴天のはずでしたが大菩薩では曇りでしたがこのように幻想世界を具現していました。
この写真は旧大菩薩峠 現名 賽の河原 です。江戸時代には、甲州街道の裏街道として市井の人々がもっとも必要な生活物資を運び往来していた峠跡だそうです。その内藤新宿と甲府を結んでいた街道を青梅街道と呼ぶそうです。その青梅街道が鍋屋横丁を交差し一本入った旧妙法寺参詣道通りに住んでいるのも何かの縁かもしれません・・・。
なお写真の小屋は避難所小屋で奥の峰は妙見ノ頭です。
また内田吐夢監督作品「大菩薩峠」三部作に魅了され、特に冒頭のタイトルに魅入られ
そのテーマ
「地獄極楽絵図」 「衆生輪廻」 「地獄和讃のメロディー」
が理解したくなっていたかもしれませんが・・・。
原作は、西多摩 羽村村(現 市)出身の中里介山です。幼年の頃、目の前に大菩薩がいつもあり心の糧になり、あの大漢和辞典を成しで皇太子、親王、内親王の名付け親でもある諸橋轍次博士と大川博東映初代社長が粟ヶ岳を幼年時見て育ち大志を抱いたように、この膨大で刹那的な小説の書き出しに繋がったと思うのであります・・・・・。 その辺も知りたくなりましてー。
中里介山著 未完の長編小説「大菩薩峠」書き出し
先週、ついに大菩薩峠に行って参りました。
やはり古くから人々を魅了する御山としているその何かを知りたく機会があればと思っていた・・・。
秋の気配を里で感じ、思い立ったように目指しました。確かに何か人を引き付ける”もの”がある気配を感じてきましたので今回からカテゴリを立て少しづつ検証したいと思います。
今回は里では秋の紅葉が感じ始められる季節となりましたが、ネットでの大菩薩峠情報は真っ盛りとのことでしたが、私が行った日には峠、付近ではすでに過ぎたようでした・・・。
しかし、この日は天気予報では晴天のはずでしたが大菩薩では曇りでしたがこのように幻想世界を具現していました。
この写真は旧大菩薩峠 現名 賽の河原 です。江戸時代には、甲州街道の裏街道として市井の人々がもっとも必要な生活物資を運び往来していた峠跡だそうです。その内藤新宿と甲府を結んでいた街道を青梅街道と呼ぶそうです。その青梅街道が鍋屋横丁を交差し一本入った旧妙法寺参詣道通りに住んでいるのも何かの縁かもしれません・・・。
なお写真の小屋は避難所小屋で奥の峰は妙見ノ頭です。
また内田吐夢監督作品「大菩薩峠」三部作に魅了され、特に冒頭のタイトルに魅入られ
そのテーマ
「地獄極楽絵図」 「衆生輪廻」 「地獄和讃のメロディー」
が理解したくなっていたかもしれませんが・・・。
原作は、西多摩 羽村村(現 市)出身の中里介山です。幼年の頃、目の前に大菩薩がいつもあり心の糧になり、あの大漢和辞典を成しで皇太子、親王、内親王の名付け親でもある諸橋轍次博士と大川博東映初代社長が粟ヶ岳を幼年時見て育ち大志を抱いたように、この膨大で刹那的な小説の書き出しに繋がったと思うのであります・・・・・。 その辺も知りたくなりましてー。
やはり相当凄そうですね。
残念ながら私はまだ行ったことがありません。
地元の延長みたいなところなんですが。
丹波山村や小菅村の日帰り温泉までしか行ったことがありません。
武蔵の国で育った者としては、一度は行ってみたいですね。
このシリーズ楽しみにしております!