最近、ちょっと新潟県の鉄道の歴史と越後小京都加茂関係を調べていたら、なんと今放映している「青天を衝け」の主人公 明治時代から昭和を牽引した近代経済界のドン 渋沢栄一氏が新潟へ来た時1910年8月8日 加茂農林学校で 経済演説 をしていました!
1910年 明治43年 加茂も元気の町のようでした!!
あんまりNHKの大河ドラマは最近は人材不足で観ないのですが、今度 渋沢栄一伝「青天を衝け」は観てみたいと思います・・・。 期待はしてませんがー。
【旅の足跡|渋沢栄一ゆかりの地|渋沢栄一|公益財団法人渋沢栄一記念財団1910/8/4】 詳細年表を見る是日栄一、東京ヲ発シ、日本女子大学校ヘノ寄付金募集並ニ女子教育振興ノタメ、信越地方ニ赴キ、十六日帰京ス。
https://www.shibusawa.or.jp/eiichi/yukarinochi/footprint/?fbclid=IwAR3G9eBFGu64ROHEXQJ9FDiSIWkNf_ozUMcjfywl4lEcLu9_dsoXV0SSC7w#1910%E5%B9%B48%E6%9C%888%E6%97%A5
追 記
昨日近代資本主義日本経済のドン 渋沢栄一氏が越後小京都加茂に1910年8月8日に来町し、当時県下優秀な学生が集った加茂農林学校で 経済演説 午餐したことを書きました。さらに資料から推測しました、明治時期の加茂ロマンがわいたので、まだ推測ですが述べてみます。
この渋沢栄一氏の新潟での目的は、日本女子大学校への寄付金募集並に女子教育振興のため、信越地方に赴きました。
加茂農林学校での経済演説では、はやりパリ万博でユーロに行った欧州社会情勢と経済状況を述べ、日本も早く欧州に追いつく政治経済を樹立しないと行けないと訓告し、また女子教育の向上を訴えたと思われます。翌日には、午前九時から新潟師範学校で 女子教育ノ必要ヲ種種 を説示したそうですので。またこの当時、越後加茂で一番最初に欧州に行った人の話かもしれませんねー。町民はすごくワクワクきらびやかな欧州に興味津々で耳を傾けて聞いた様子が目に浮かびます。
加茂での滞在は、多分長岡から列車で加茂駅に午前に着き、そのまま加茂農林学校で経済演説しその後に歓迎午餐 食事会が開かれ渋沢栄一氏と加茂町民の交流会が行われたと思います。しかし午後二時四十八分に新潟着なので、午後1時過ぎには加茂駅から新潟行の列車に乗ったと考えられますのでわずか午前中の短い時間での滞在のようです。残念ながら加茂山、粟ヶ岳や加茂川の風景も車窓からのみのようです・・。
さらに深読みすると、その後加茂ではポンジョに進学したという人の話は聞かれませんが、加茂1928年と三条1921年に女学校が設立されて地元女子教育に勤しんだという事実は、その影響力を顧みることが出来ます!
この新潟新聞所報 8月9日 記事 「渋沢男八月八日新潟着 予期の如く男爵渋沢栄一・森村市左衛門・成瀬仁蔵諸氏の一行は昨日午後二時四十八分着の列車にて来港ー」
リンクblogは、数年前飛鳥山のさくらを観に行った時に寄った旧渋沢栄一宅です。ここで晩年をおくられていたそうです。素晴らしい桜が咲いていました! 今年、観に行って下さい!!
大正時代の加茂農林学校 正門
追 記
先日から放映されているnhk大河ドラマ「」の主人公 渋沢栄一氏の明治43年加茂町 町来 加茂農林学校で経済講義の関してさらにまた深読みし推測しました。
渋沢栄一氏は、この1910年明治43年新潟の旅の前年1909年8月19日渡米実業団として横浜から米シアトルに船で向かったそうです。9月1日にはシアトルに着き、9月4日にはシアトル博覧会で「日本日」祝賀式に臨に演説し、夜にはシアトル博覧会主催渡米実業団歓迎晩餐会及び政府館内に於けるレセプションに出席したそうです。
またこの渋谷栄一氏率いる一団は米東海岸の街々を巡り各街の商業会議所と親善親交を交えたようです。
なお一行は、9月19日米大統領ウィリアム・タフトと会見したそうです。さらには10月20日日米修好通商条約を締結したタウンゼンド・ハリスのお墓を参り、24日にはニューポートにあるあの日本に開港を要求したペリー提督の墓も詣ったそうです。すでにこの時代には、日米親善、日米貿易の礎が気付かれていたようです。
実は先の渡米の際には明治35年6月13日1902年ワシントンで米大統領ルーズヴェルトと会見しています。これは米大統領が外国人に会見するという事は異例の異例だとのことですので、それだけアジアでの日本の重要性が問われ、渋沢栄一氏という外交のキーパーソンとして強く信頼されていた事だと思います。
またすでに米では、。1908年フォードがフォード・T型を発売し自動車オートメーション化で街中に自動車が走っている光景を見て、また一団も自動車に乗っても移動だったかもしれませんー。
こんなアメリカ東海岸の近代資本主義国家が邁進している国の経済をも、加茂で話したのかもしれませんねー。
なお、写真は渋沢栄一氏が長岡から朝列車に乗って加茂駅に来町された当時の加茂駅です。午後にはすぐにこの加茂駅から新潟に乗車され向かいました。この日、午前中だけ加茂に寄られ経済講演し午餐もされ、風のように去った近代資本主義 経済界のドン渋沢栄一氏がわざわざ長岡と新潟の途中に時間を割いて来町されるというのは、当時の加茂産業の重要性を省みる事ができます。
又さらにこの開業間近の加茂駅はまだ憶測でその証言が見つかっていませんが県下の鉄道の歴史から推測すると映画の東映初代社長大川博社長の15歳(1911年明治44年 または1912年明治45年 大正元年)で岩倉鉄道学校に入ると志、加奈居村 羽黒のちの中之口村から上京する時はこの加茂駅から乗車したようです。
この頃には、もうt型フォード自動車が走っていたかもしれせんが・・・。
写真は明治39年当時の加茂駅
渋沢栄一詳細年譜 渋沢栄一詳細年譜検索 詳細年譜 凡例 明治42年(1909)〔 69歳 〕
https://www.shibusawa.or.jp/SH/kobunchrono/ch1910.html?fbclid=IwAR2Vqvyc73JGWfItRTawxIQI2H8a0K__19MXCXd9PKYGYj-2KJVjbiIlknY#DK570263k
1910年 明治43年 加茂も元気の町のようでした!!
あんまりNHKの大河ドラマは最近は人材不足で観ないのですが、今度 渋沢栄一伝「青天を衝け」は観てみたいと思います・・・。 期待はしてませんがー。
【旅の足跡|渋沢栄一ゆかりの地|渋沢栄一|公益財団法人渋沢栄一記念財団1910/8/4】 詳細年表を見る是日栄一、東京ヲ発シ、日本女子大学校ヘノ寄付金募集並ニ女子教育振興ノタメ、信越地方ニ赴キ、十六日帰京ス。
https://www.shibusawa.or.jp/eiichi/yukarinochi/footprint/?fbclid=IwAR3G9eBFGu64ROHEXQJ9FDiSIWkNf_ozUMcjfywl4lEcLu9_dsoXV0SSC7w#1910%E5%B9%B48%E6%9C%888%E6%97%A5
追 記
昨日近代資本主義日本経済のドン 渋沢栄一氏が越後小京都加茂に1910年8月8日に来町し、当時県下優秀な学生が集った加茂農林学校で 経済演説 午餐したことを書きました。さらに資料から推測しました、明治時期の加茂ロマンがわいたので、まだ推測ですが述べてみます。
この渋沢栄一氏の新潟での目的は、日本女子大学校への寄付金募集並に女子教育振興のため、信越地方に赴きました。
加茂農林学校での経済演説では、はやりパリ万博でユーロに行った欧州社会情勢と経済状況を述べ、日本も早く欧州に追いつく政治経済を樹立しないと行けないと訓告し、また女子教育の向上を訴えたと思われます。翌日には、午前九時から新潟師範学校で 女子教育ノ必要ヲ種種 を説示したそうですので。またこの当時、越後加茂で一番最初に欧州に行った人の話かもしれませんねー。町民はすごくワクワクきらびやかな欧州に興味津々で耳を傾けて聞いた様子が目に浮かびます。
加茂での滞在は、多分長岡から列車で加茂駅に午前に着き、そのまま加茂農林学校で経済演説しその後に歓迎午餐 食事会が開かれ渋沢栄一氏と加茂町民の交流会が行われたと思います。しかし午後二時四十八分に新潟着なので、午後1時過ぎには加茂駅から新潟行の列車に乗ったと考えられますのでわずか午前中の短い時間での滞在のようです。残念ながら加茂山、粟ヶ岳や加茂川の風景も車窓からのみのようです・・。
さらに深読みすると、その後加茂ではポンジョに進学したという人の話は聞かれませんが、加茂1928年と三条1921年に女学校が設立されて地元女子教育に勤しんだという事実は、その影響力を顧みることが出来ます!
この新潟新聞所報 8月9日 記事 「渋沢男八月八日新潟着 予期の如く男爵渋沢栄一・森村市左衛門・成瀬仁蔵諸氏の一行は昨日午後二時四十八分着の列車にて来港ー」
リンクblogは、数年前飛鳥山のさくらを観に行った時に寄った旧渋沢栄一宅です。ここで晩年をおくられていたそうです。素晴らしい桜が咲いていました! 今年、観に行って下さい!!
大正時代の加茂農林学校 正門
追 記
先日から放映されているnhk大河ドラマ「」の主人公 渋沢栄一氏の明治43年加茂町 町来 加茂農林学校で経済講義の関してさらにまた深読みし推測しました。
渋沢栄一氏は、この1910年明治43年新潟の旅の前年1909年8月19日渡米実業団として横浜から米シアトルに船で向かったそうです。9月1日にはシアトルに着き、9月4日にはシアトル博覧会で「日本日」祝賀式に臨に演説し、夜にはシアトル博覧会主催渡米実業団歓迎晩餐会及び政府館内に於けるレセプションに出席したそうです。
またこの渋谷栄一氏率いる一団は米東海岸の街々を巡り各街の商業会議所と親善親交を交えたようです。
なお一行は、9月19日米大統領ウィリアム・タフトと会見したそうです。さらには10月20日日米修好通商条約を締結したタウンゼンド・ハリスのお墓を参り、24日にはニューポートにあるあの日本に開港を要求したペリー提督の墓も詣ったそうです。すでにこの時代には、日米親善、日米貿易の礎が気付かれていたようです。
実は先の渡米の際には明治35年6月13日1902年ワシントンで米大統領ルーズヴェルトと会見しています。これは米大統領が外国人に会見するという事は異例の異例だとのことですので、それだけアジアでの日本の重要性が問われ、渋沢栄一氏という外交のキーパーソンとして強く信頼されていた事だと思います。
またすでに米では、。1908年フォードがフォード・T型を発売し自動車オートメーション化で街中に自動車が走っている光景を見て、また一団も自動車に乗っても移動だったかもしれませんー。
こんなアメリカ東海岸の近代資本主義国家が邁進している国の経済をも、加茂で話したのかもしれませんねー。
なお、写真は渋沢栄一氏が長岡から朝列車に乗って加茂駅に来町された当時の加茂駅です。午後にはすぐにこの加茂駅から新潟に乗車され向かいました。この日、午前中だけ加茂に寄られ経済講演し午餐もされ、風のように去った近代資本主義 経済界のドン渋沢栄一氏がわざわざ長岡と新潟の途中に時間を割いて来町されるというのは、当時の加茂産業の重要性を省みる事ができます。
又さらにこの開業間近の加茂駅はまだ憶測でその証言が見つかっていませんが県下の鉄道の歴史から推測すると映画の東映初代社長大川博社長の15歳(1911年明治44年 または1912年明治45年 大正元年)で岩倉鉄道学校に入ると志、加奈居村 羽黒のちの中之口村から上京する時はこの加茂駅から乗車したようです。
この頃には、もうt型フォード自動車が走っていたかもしれせんが・・・。
写真は明治39年当時の加茂駅
渋沢栄一詳細年譜 渋沢栄一詳細年譜検索 詳細年譜 凡例 明治42年(1909)〔 69歳 〕
https://www.shibusawa.or.jp/SH/kobunchrono/ch1910.html?fbclid=IwAR2Vqvyc73JGWfItRTawxIQI2H8a0K__19MXCXd9PKYGYj-2KJVjbiIlknY#DK570263k
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