遺影
母は満108歳と46日、市最高齢者として天寿を全うしました。
先ず、ご厚誼賜りました皆様や老人施設、病院の皆様に、心から感謝とお礼を申し上げます。 2月7日の診察、そのまま入院が生まれて初めての病院体験とのことです。
母は、ことばあちゃんと皆様から愛され、親しまれて、人柄は人付き合いを大切にされ、争いを好まず、自己主張せず、映画ゴッドファーザーのドン、ピトー・コルレオーネのようにファミリーの中心・存在感がありました。
母方の略系図です。
曾祖母 曽祖父 文政6年(1806)~明治40年(1907)江戸後期102歳
↓ ↓
祖母----------祖父 文久2年(1862)~大正13年(1924)江戸末期63歳
↓
母------------------------------------------------------父
明治37年(1904)~平成24年(2012) 108歳 ↓ 明治20年(1887)~昭和36 年(1961)76歳
姉--長男--ニ男(私)--弟
・他に娘3人を3歳で下痢嘔吐症(白痢)で亡くす、男の子1人を死産。
・直系 子4人、孫9人、ひ孫19人、玄孫4人
母は尋常高等小学校を、今の小学校卒と同年齢の12歳で卒業し、愛知県一宮市木曽川町の織物会社へ働きに出たのが最初の就職です。仕事の内容は子守だったとか。
その後木曽へ糸引き女工に出ます。歩いたり、馬車で下呂市から加子村舞台峠を越え、中津川市坂下町へ出て、そこから汽車で木曽へ行ったそうです。
夫は連れ添い運が悪く初婚の妻に結核で先立たれ、後添いとして初婚の母が大正14年(1925年)21歳で17歳も歳が離れた父と結婚しました。
母の兄と夫となる人が仲が良く、自然にそういう話になり、勝手に決められてしまったとか。
当然母には嫌な縁談で、相手の弟から「今夜お前を貰いに行かれるぞ」と、初めて聞いて驚いて、曾祖母が嫁いでいた隣村へ逃げた。
そこがお祭りだったので見ているところへ、兄が来て説得されお宮の鳥居にしがみついて抵抗したとか。昔語りによく聞きました。
話を決めず木曽へ糸引きに出ますが、正月が来て帰ると縁談が再発するので、帰省しないと舎監に告げて許され、正月を過ごしていたら「父危篤すぐ帰れ」と電報が来て、ウソ話だと思って帰ったら本当に父が危篤状態だったとか。
諦めて歳の離れた再婚の夫と嫌々一緒になったのですね。
曾祖母は高山市へ嫁ぎますが、連れ添いの死別で幼い娘を連れて実家へ戻り、娘は子供養子に貰われ成人し、母にとっては父に当る祖父と連れ添った人です。
曾祖母はその後隣村のお寺へ再婚し嫁ぎました。そこへ逃げたのですね。
今日は母の葬儀式。今日の葬式には壇那寺の老導師、若の伴僧と、昔のご縁で血がつながる母の曾祖母の寺から老若二人が伴僧で、儀式は4人のご法中(ほっちゅう)様です。僧侶の呼び方も難しいですね。
焼香に呼ばれたら、前に進み先ず導師の架ける釈迦の教えの象徴、七条袈裟に合掌表敬します、導師に表敬するのではないと、終わってからは合掌せず導師に軽く一礼と、この僧侶の教えです。伴僧は五条袈裟です。
60数戸の集落内に父・母の両本家とも現存し、今回の葬儀は両本家の惣領が仕切りました。系図は過去に母の実家の香典帳で調べたものです。祖母の香典帳は見当りませんでした。
結婚年齢などは役場へ兄嫁の死亡届に行ったついでに、父の除籍謄本を交付してもらい家族史を調べました。
兄が60年もの間、某経済団体のお世話になり昨年6月退任したので、盛大な葬儀になりました。
母の存在は心のうちのどこかにあって、実在は幾つの歳になってもいいものでした。
貧乏百姓で長い苦労の多い人生お疲れ様でした。ばあちゃんありがとう。合掌
付録)
・高山市人口統計 2012年4月現在 男性44,133 女性48,728 計92,861人