◆8月6日、広島市長は被爆70年平和祈念式典の宣言で、現在使う人も
ほとんど居なくなった方弁「まどうてくれ」(償うの意)を織り込んで
非核・非戦を誓った。
◆戦争が一区切りしたのが15日(終戦記念日)
ほとんど居なくなった方弁「まどうてくれ」(償うの意)を織り込んで
非核・非戦を誓った。
◆戦争が一区切りしたのが15日(終戦記念日)
、この日の公式名称は「戦歿者を追悼し平和を祈念する日」だが、
いまだに敗戦か?終戦か?停戦か?定まらず
ファジーな扱いで、このような表現になったのかな?と思う。
◆かねてより気になっていた自分にとっての「敗戦・終戦・停戦はいつ?」を
考えてみた。
・一つ目は、8月11日・・・無条件降伏だから「敗戦」
同盟通信が「ポツダム宣言受諾」を世界に配信し、連合国が戦勝記念を祝った日。
そして、この日、家内(当時5歳)は被爆した父の亡骸を母と共に荼毘に付した。
・二つ目は、8月15日・・・実感は「敗戦」
「玉音」が電波に乗って放送され、一般に「“終戦”記念日」とされている。
この日、私は夏休み返上で、校庭に集められ、雑音交じりの音声を聴く。
よく理解もできず、先生の指示により急いで帰宅。
夕方になり暴動・略奪・・・帰国まで恐怖の10カ月が続く。
この日を境に「中華料理店の味付け」が「日本人」から「中国人」好みに
変わる。
・三つ目は、昭和21年6月X日・・・実感は「敗戦」
私と母・二人の妹の4人が外地から引き揚げてきた日。
いまだに敗戦か?終戦か?停戦か?定まらず
ファジーな扱いで、このような表現になったのかな?と思う。
◆かねてより気になっていた自分にとっての「敗戦・終戦・停戦はいつ?」を
考えてみた。
・一つ目は、8月11日・・・無条件降伏だから「敗戦」
同盟通信が「ポツダム宣言受諾」を世界に配信し、連合国が戦勝記念を祝った日。
そして、この日、家内(当時5歳)は被爆した父の亡骸を母と共に荼毘に付した。
・二つ目は、8月15日・・・実感は「敗戦」
「玉音」が電波に乗って放送され、一般に「“終戦”記念日」とされている。
この日、私は夏休み返上で、校庭に集められ、雑音交じりの音声を聴く。
よく理解もできず、先生の指示により急いで帰宅。
夕方になり暴動・略奪・・・帰国まで恐怖の10カ月が続く。
この日を境に「中華料理店の味付け」が「日本人」から「中国人」好みに
変わる。
・三つ目は、昭和21年6月X日・・・実感は「敗戦」
私と母・二人の妹の4人が外地から引き揚げてきた日。
やっとの思いで帰国、広島駅頭で廃墟と化した市街地に茫然となる。
・四つ目は、昭和22年6月Y日・・・実感は「終戦」
極寒のシベリヤに抑留され、塩と僅かなスープで飢えをしのぎながらの
重労働。
・四つ目は、昭和22年6月Y日・・・実感は「終戦」
極寒のシベリヤに抑留され、塩と僅かなスープで飢えをしのぎながらの
重労働。
※「ラーゲル」(収容所)の周りの生き物が姿を消す。
強度の栄養失調状態の父が復員し、やっと家族全員が揃った日。
強度の栄養失調状態の父が復員し、やっと家族全員が揃った日。
◆一般に「玉音放送」が内外に流れた8月15日が「終戦記念日」と
されているが。
私にとって、どうもしっくりこないのはこのような背景がある故。
されているが。
私にとって、どうもしっくりこないのはこのような背景がある故。
◆以下その“8月15日”から昭和21年6月X日までをたどってみる。
・8月15日、「玉音放送」のあと、夕刻、満州人による暴動・略奪が発生。
・どさくさに紛れ日本語を流ちょうに話す強盗が押し入ったが、気丈な母が撃退。
・やがてソ連軍の進駐、八路(パーロ)軍(現・中国共産党人民解放軍)に追われ
逃げてきた蒋介石率いる国民党軍などに怯えながら約10カ月過ごす。
・翌21年6月、旧満州奉天市(現・中国・瀋陽市)の南奉天駅まで徒歩、
屋根のない無蓋貨物車に乗せられ、雨中、濡れた毛布1枚に震えながら~
葫蘆(コロ)島へ。
・武装解除された“旧大日本帝国海軍”の「海防艦」で一路博多港へ。
上陸「DDT」を頭からかけられ~博多駅から「客車」で広島へ、
駅頭に降り立った私たち親子4名はあまりの風景に言葉もない。
・焼損した広島駅前から遮るものもなく「産業奨励館」(現・原爆ドーム)を
見渡すことができた。
・父方・母方の里は「リトルボーイ」(広島型原子爆弾)で一瞬に跡形もなく
吹き飛び、両家合わせて10名が一瞬にして犠牲になっていた。
・F町の親戚に身を寄せていた、母方の生き残りの弟たちのところに取敢えず
転がり込んだ。
◆あれから70年、こんな経験は自分たちだけで、もう沢山
・8月15日、「玉音放送」のあと、夕刻、満州人による暴動・略奪が発生。
・どさくさに紛れ日本語を流ちょうに話す強盗が押し入ったが、気丈な母が撃退。
・やがてソ連軍の進駐、八路(パーロ)軍(現・中国共産党人民解放軍)に追われ
逃げてきた蒋介石率いる国民党軍などに怯えながら約10カ月過ごす。
・翌21年6月、旧満州奉天市(現・中国・瀋陽市)の南奉天駅まで徒歩、
屋根のない無蓋貨物車に乗せられ、雨中、濡れた毛布1枚に震えながら~
葫蘆(コロ)島へ。
・武装解除された“旧大日本帝国海軍”の「海防艦」で一路博多港へ。
上陸「DDT」を頭からかけられ~博多駅から「客車」で広島へ、
駅頭に降り立った私たち親子4名はあまりの風景に言葉もない。
・焼損した広島駅前から遮るものもなく「産業奨励館」(現・原爆ドーム)を
見渡すことができた。
・父方・母方の里は「リトルボーイ」(広島型原子爆弾)で一瞬に跡形もなく
吹き飛び、両家合わせて10名が一瞬にして犠牲になっていた。
・F町の親戚に身を寄せていた、母方の生き残りの弟たちのところに取敢えず
転がり込んだ。
◆あれから70年、こんな経験は自分たちだけで、もう沢山
持てば使いたくなる飛び道具
市長ならずとも「まどうてくれ」“忠太”夫婦
愚痴っぽいプロフィールみたいになったりして失礼
敗戦・終戦・停戦 何であれ「せん」ことじゃの
ところで Windows10 Pro の調子は ?
好調 好調
市長ならずとも「まどうてくれ」“忠太”夫婦
愚痴っぽいプロフィールみたいになったりして失礼
敗戦・終戦・停戦 何であれ「せん」ことじゃの
ところで Windows10 Pro の調子は ?
好調 好調