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"忠太"奮闘記

“まどうてくれ” それぞれの記念日

2015-08-13 08:31:04 | 鎮魂
◆8月6日、広島市長は被爆70年平和祈念式典の宣言で、現在使う人も
 ほとんど居なくなった方弁「まどうてくれ」(償うの意)を織り込んで
 非核・非戦を誓った。

◆戦争が一区切りしたのが15日(終戦記念日)
、この日の公式名称は「戦歿者を追悼し平和を祈念する日」だが、
 いまだに敗戦か?終戦か?停戦か?定まらず
 ファジーな扱いで、このような表現に
なったのかな?と思う。

◆かねてより気になっていた自分にとっての「敗戦・終戦・停戦はいつ?」を
 考えてみた。

 ・一つ目は、8月11日・・・無条件降伏だから「敗戦」
  同盟通信が「ポツダム宣言受諾」を世界に配信し、連合国が戦勝記念を祝った日。
  そして、この日、家内(当時5歳)は被爆した父の亡骸を母と共に荼毘に付した。
 ・二つ目は、8月15日・・・実感は「敗戦」
  「玉音」が電波に乗って放送され、一般に「“終戦”記念日」とされている。
  この日、私は夏休み返上で、校庭に集められ、雑音交じりの音声を聴く。
  よく理解もできず、先生の指示により急いで帰宅。
  夕方になり暴動・略奪・・・帰国まで恐怖の10カ月が続く。
  この日を境に「中華料理店の味付け」が「日本人」から「中国人」好みに
  変わる。

 ・三つ目は、昭和21年6月X日・・・実感は「敗戦」
  私と母・二人の妹の4人が外地から引き揚げてきた日。
  やっとの思いで帰国、広島駅頭で廃墟と化した市街地に茫然となる。
 ・四つ目は、昭和22年6月Y日・・・実感は「終戦」
  極寒のシベリヤに抑留され、塩と僅かなスープで飢えをしのぎながらの
  重労働。
  ※「ラーゲル」(収容所)の周りの生き物が姿を消す。
  強度の栄養失調状態の父が復員し、やっと家族全員が揃った日。 

◆一般に「玉音放送」が内外に流れた8月15日が「終戦記念日」と
  されているが。

  私にとって、どうもしっくりこないのはこのような背景がある故。
 
◆以下その“8月15日”から昭和21年6月X日までをたどってみる。
 ・8月15日、「玉音放送」のあと、夕刻、満州人による暴動・略奪が発生。
 ・どさくさに紛れ日本語を流ちょうに話す強盗が押し入ったが、気丈な母が撃退。
 ・やがてソ連軍の進駐、八路(パーロ)軍(現・中国共産党人民解放軍)に追われ
  逃げてきた蒋介石率いる国民党軍などに怯えながら約10カ月過ごす。
 ・翌21年6月、旧満州奉天市(現・中国・瀋陽市)の南奉天駅まで徒歩、
  屋根のない無蓋貨物車に乗せられ、雨中、濡れた毛布1枚に震えながら~
  葫蘆(コロ)島へ。
 ・武装解除された“旧大日本帝国海軍”の「海防艦」で一路博多港へ。
  上陸「DDT」を頭からかけられ~博多駅から「客車」で広島へ、
  駅頭に降り立った私たち親子4名はあまりの風景に言葉もない。
 ・焼損した広島駅前から遮るものもなく「産業奨励館」(現・原爆ドーム)を
  見渡すことができた。
 ・父方・母方の里は「リトルボーイ」(広島型原子爆弾)で一瞬に跡形もなく
  吹き飛び、両家合わせて10名が一瞬にして犠牲になっていた。
 ・F町の親戚に身を寄せていた、母方の生き残りの弟たちのところに取敢えず
  転がり込んだ。

◆あれから70年、こんな経験は自分たちだけで、もう沢山
 
   持てば使いたくなる飛び道具
  市長ならずとも「まどうてくれ」“忠太”夫婦 
     愚痴っぽいプロフィールみたいになったりして失礼 
   敗戦・終戦・停戦 何であれ「せん」ことじゃの 
     ところで  Windows10 Pro の調子は ?
   好調 好調 

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