ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

桜の花の美しさの意味について語ろう、と思う

2008-04-01 22:41:34 | Weblog
春爛漫の季節の到来を迎えつつある今日この頃である。夜になるとまだまだ肌寒いが、それでも、すでに桜の花は、開花の速度を緩めようとはしない。僕の裡なる桜とはあくまでソメイヨシノである。しだれ桜も悪くはないが、あのソメイヨシノの桜の花の、過剰なほどの美しさと比べれば、しだれ桜など、ある種の変種的な嗜好をそそるだけの存在に過ぎない。桜の花が美しいのか、美しいのが桜の花なのかはともかくとして、なぜ桜の季節に、咲き誇るソメイヨシノの美しさに人々がこだわるのか、僕なりの考察を加えてみたい、と思う。
桜が美しい、と感じるのは、咲き誇った桜の美しさそのものを、感受するだけで引き起こされる感情ではない。人々は桜の過剰な美しさを感得すると同時に、その美しさは美しいままに、その命の短さを訴えるがごときに、ハラハラと花びらを散らせることを予測しながら、咲き誇った桜を愛でつつ、美しい、と感じるのである。それはあたかも美の滅びを内包したもの故に、人の心を打つかのようである。その滅び自体が、美しいままの花びらの飛散という姿で立ち現れるのである。殊更に人々が桜に思い入れる意味は、ここにこそ在る。春から初夏にかけて、美しいアジサイが咲く。可憐な花の、色とりどりの開花に人は感嘆させられる。アジサイが美しいのは誰も否定はしないが、桜に比べれば、それほど、アジサイの美しさに人は思い入れがないと推察する。美しい、と、ある意味客観的にその美を受容するばかりではないだろうか。
桜の美しさとアジサイの美しさとの違いはどこにあるのか? 誤解を恐れずに言うが、その違いは、美という概念に、はかなく滅びていくという意味が内包されているからこそ、桜の美しさは人の胸を打つのである。それに比して、アジサイの美しさには、桜のごとき、美しいままに滅びていく潔さがない。アジサイは、これでもか、と言わんばかりに自らの美を主張しながらも、美しかった花びらを茶色に変色させ、醜悪なほどに自らの美を醜へと移行させつつ、まさに最後は頭(こうべ)を垂れて、枯れはてる。後には無残なほどに美しさの名残りもない。このような滅びに人は決して魅了されはしない。美しいうちは、その美しさを愛でるが、醜悪な姿を晒した途端、その姿から人は目を逸らす。美の壊れに潔さが伴わないそれは、美が醜へと変わり果てていくプロセスで、かつて存在したはずの美すら忘れられてしまうという、哀しいまでの性(さが)を有していると言える。ボタンの花の過剰な美しさも、案外に人の心を打たないのは、美しさの主張としての花の美しさの終焉が、枯れはてた花が、茎からボタリと落ちるという、ある種の崩壊感覚を想わせるからに他ならない。美と醜の落差が大きすぎるのだ。
武士道という死による潔き、この世の別れという思想には、桜の散り際の映像が多分に影響している、と思われる。古式にのっとった切腹という死に様を、はかない桜の死にたとえようとする気分は分からなくはないが、やはり無理があり過ぎる。切腹の潔さとは、自ら短刀を腹に突き刺し、突き刺した短刀を真横に引き、さらに腹の上部へと引き裂くまで、死にゆく人間は意識が遠のいていくことに抗いながら、なし遂げるのが正しい切腹の方法論だ。そして、絶命のための介錯を待つ。しかし、少し想像力を逞しくすれば、切腹のあり方が正しければ正しいほど、その死に様は、桜が散るように美しいどころか、腹を切り裂けば、己れの臓物は飛び出してくるわ、大量の血液と混じって様々なドロリとした体内液が吹き出してくるわ、で、これは美とは対局に位置する死にざまではなかろうか? とどめの介錯は、勿論切腹を遂げた人間の首を刀ですっ飛ばすのであるから、抉り取られた首の断面なぞは、たぶんおぞましい限りの惨劇そのものだろう。人間の死とは、どのように思想的に意味づけをしてみても、どこまでいっても醜の出来事に過ぎないのではないか、と思われる。
桜の散るようには、人は散れないのである。ならば、いっそのこと、生のありようがたとえ醜の世界に属するものであれ、むしろ、その醜の世界に留まり続けて、死に対して抗い続ける方がよほど意味があるのではないか? と思えてならない。潔い死も、命乞いの末の死も、死の本質には変わりがない。僕にはそう思えるのである。

○推薦図書「豊饒の海」(1)ー(4) 三島由紀夫著。新潮文庫。三島が「楯の会」のメンバーと市ヶ谷駐屯所を占拠する前日まで書き続けられた作品です。やはり第4巻は、三島の表現の中に死に急ぐ表現者の影が散見出来ます。三島は古式にのっとった切腹を果たしますが、それこそが目的であったような行動でした。ただ、当時、たくさん出版された三島の特集の中には、切腹を果たした三島の首が、三島の想像したであろう美とはまるで異なるように、ゴロリ、と床の上に転がっていた図がいまでも頭の片隅に残っています。さらに言うと三島はもともとか弱かった自分の肉体をボディ・ビルと剣道によって鍛え上げていたゆえに、介錯の刀は何度も三島の首の途中で止まったそうです。その切り口は、スパッとはいかなかったようです。人間、なかなかイメージ通りには死ねません。