○明石屋さんまという芸人の凄味について想うこと
もう、いまや、「さんま」という芸人・タレント・司会者・映画・テレビ俳優の存在を知らない人はいないだろう。政治家の名前など知らなくても、明石家さんまという個性は日本中の誰もが知っている、と思われる。彼の凄味は、関西という地域性を、全国版にしてしまったことだ。関西の文化、言葉使い、あるいは、物の考え方などを彼は日本中に押し広めた。
僕が青年の頃、文化の中心はあくまで東京であった。東京に出向いた関西人などは、彼らの東京弁なるものに、たいへんなコンプレックスを持っていた、と記憶する。東京に住む人間にとっては、関西などは、軽蔑すべき地域性を持ったあくまでローカルな存在に過ぎなかった。僕の当時の友人は、東京のある音大附属高校へ入学し、その後東京芸大の指揮科に合格し、東京芸大時代に知り合ったバイオリン科のお嬢さんと結婚し、ドイツ留学にさっさと行ってしまったので、いまや、まったく手の届く人間ではなくなってしまった。とは言え、かつての友人が世界を股にかけて活躍する姿を想像すると、胸の中がすっきりするような爽やかな想いに駆られこそすれ、嫉妬心など一カケラも湧いては来ないのを、幸いなこととしよう、と思う。その彼が10代半ばで、東京に出たとき、新入生の挨拶をクラスでしなければならないハメになって、彼は必死で神戸の言葉を隠し、東京の言葉で自己紹介したつもりだったらしい。が、一朝一夕には、言葉のイントネーションとなると、それを変えることなど困難そのもので、彼の自己紹介の中に、ちょっとした神戸弁が混じったのだ、と言う。その瞬間にクラス中に爆笑の嵐が吹き荒れたのだ、と夏休みに神戸にもどってきた友人が悔しそうに呟いていたのを思い出す。地方を特別に意識したものを除けば、映画もテレビもラジオも、そこから流れ出てくる声のイントネーションは全てが東京を象徴するものだった。小説の中の風景も言葉使いも東京そのものだった。東京とは、関西に住む人間にとっては、当時圧倒的な文化的優位性を持って、現存していたのである。
現代のように、関西弁、とりわけ大阪弁がポピュラーな存在になったのは、明石家さんまという才能豊かな芸人(と敢えて言っておこう)が、大阪弁をまるでブルドーザーで東京弁を踏みつぶすかのごとき勢いで、席巻し得た結果ではないか、と思われる。いまや、東京の人々が奇妙な関西弁を真似る時代になった。東京で関西弁を大声で話すのはある種のアィデンティティの証明であるかのごときものに変質した。その意味においても芸能が文化の相互交流を図る時代に突入したのだ、と思う。良いことなのかどうかは分からぬが、さんまによって、セックスはエッチと呼び倣わされ、セックスから男女の濃密な性的交わりの匂いを消臭するかのごとく、男女のセックスはおおっぴらに語られ、また実生活の中においても、暗い罪の意識から開放されるかのごとく、確固たる市民権を得た感すらある。明石家さんまほど、関西文化を日本中に席巻し得た人間はかつていなかった、と思う。さんまの後に続いて、吉本興業という関西の一ローカルプロダクションが全国版になった。いまや、いつテレビをつけても、関西のお笑い芸人が関西弁を喋っていない日など一日たりともない。
言語の東西交流が全国規模で行われる時代とは、文化の相互交流という意味合いにおいて重要であり、この流れは、きっと日本と世界との言語的・文化的交流の深度を否応なく深めるのは間違いのない要素である。恐ろしきかな、明石家さんま。敬服するばかりである。
○推薦図書「アヴァンギャルド芸術」 花田清輝著。筑摩叢書221 日本の芸術・思想を支えている自然主義的精神と終生闘い続けた花田清輝の代表的評論集です。花田の過去の文化への抗いと、明石家さんまの、どこまでも明るい関西芸能文化の、東京への抗いとして重ねて考えるのは、無理があり過ぎるでしょうか? それほどの価値ある存在だ、と僕には思えてならないのですが。
京都カウンセリングルーム
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃
もう、いまや、「さんま」という芸人・タレント・司会者・映画・テレビ俳優の存在を知らない人はいないだろう。政治家の名前など知らなくても、明石家さんまという個性は日本中の誰もが知っている、と思われる。彼の凄味は、関西という地域性を、全国版にしてしまったことだ。関西の文化、言葉使い、あるいは、物の考え方などを彼は日本中に押し広めた。
僕が青年の頃、文化の中心はあくまで東京であった。東京に出向いた関西人などは、彼らの東京弁なるものに、たいへんなコンプレックスを持っていた、と記憶する。東京に住む人間にとっては、関西などは、軽蔑すべき地域性を持ったあくまでローカルな存在に過ぎなかった。僕の当時の友人は、東京のある音大附属高校へ入学し、その後東京芸大の指揮科に合格し、東京芸大時代に知り合ったバイオリン科のお嬢さんと結婚し、ドイツ留学にさっさと行ってしまったので、いまや、まったく手の届く人間ではなくなってしまった。とは言え、かつての友人が世界を股にかけて活躍する姿を想像すると、胸の中がすっきりするような爽やかな想いに駆られこそすれ、嫉妬心など一カケラも湧いては来ないのを、幸いなこととしよう、と思う。その彼が10代半ばで、東京に出たとき、新入生の挨拶をクラスでしなければならないハメになって、彼は必死で神戸の言葉を隠し、東京の言葉で自己紹介したつもりだったらしい。が、一朝一夕には、言葉のイントネーションとなると、それを変えることなど困難そのもので、彼の自己紹介の中に、ちょっとした神戸弁が混じったのだ、と言う。その瞬間にクラス中に爆笑の嵐が吹き荒れたのだ、と夏休みに神戸にもどってきた友人が悔しそうに呟いていたのを思い出す。地方を特別に意識したものを除けば、映画もテレビもラジオも、そこから流れ出てくる声のイントネーションは全てが東京を象徴するものだった。小説の中の風景も言葉使いも東京そのものだった。東京とは、関西に住む人間にとっては、当時圧倒的な文化的優位性を持って、現存していたのである。
現代のように、関西弁、とりわけ大阪弁がポピュラーな存在になったのは、明石家さんまという才能豊かな芸人(と敢えて言っておこう)が、大阪弁をまるでブルドーザーで東京弁を踏みつぶすかのごとき勢いで、席巻し得た結果ではないか、と思われる。いまや、東京の人々が奇妙な関西弁を真似る時代になった。東京で関西弁を大声で話すのはある種のアィデンティティの証明であるかのごときものに変質した。その意味においても芸能が文化の相互交流を図る時代に突入したのだ、と思う。良いことなのかどうかは分からぬが、さんまによって、セックスはエッチと呼び倣わされ、セックスから男女の濃密な性的交わりの匂いを消臭するかのごとく、男女のセックスはおおっぴらに語られ、また実生活の中においても、暗い罪の意識から開放されるかのごとく、確固たる市民権を得た感すらある。明石家さんまほど、関西文化を日本中に席巻し得た人間はかつていなかった、と思う。さんまの後に続いて、吉本興業という関西の一ローカルプロダクションが全国版になった。いまや、いつテレビをつけても、関西のお笑い芸人が関西弁を喋っていない日など一日たりともない。
言語の東西交流が全国規模で行われる時代とは、文化の相互交流という意味合いにおいて重要であり、この流れは、きっと日本と世界との言語的・文化的交流の深度を否応なく深めるのは間違いのない要素である。恐ろしきかな、明石家さんま。敬服するばかりである。
○推薦図書「アヴァンギャルド芸術」 花田清輝著。筑摩叢書221 日本の芸術・思想を支えている自然主義的精神と終生闘い続けた花田清輝の代表的評論集です。花田の過去の文化への抗いと、明石家さんまの、どこまでも明るい関西芸能文化の、東京への抗いとして重ねて考えるのは、無理があり過ぎるでしょうか? それほどの価値ある存在だ、と僕には思えてならないのですが。
京都カウンセリングルーム
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃