○破壊し、再構築へ
人間、生きている限りにおいて、まずは家族という、他者からの影響は免れがたく受ける。家族とは、意外に難物であり、親が子どもを慈しみ、愛を育み、幸福に満ち溢れた家族像などは、かなりな幻像に近い、人間の想像物である。人が初めて受ける心の傷を、他ならぬ家族から受けていることが圧倒的に多い、と思われる。家族と言っても千差万別なのである。むしろ家族とは、人が生の最初に出会う毒と言っても、その定義に当てはまらない人の数の方が圧倒的に少ないのではないか、と推察する。その意味においても家族とは人の生涯に、良い意味においても、たぶん悪い意味における影響の方が大であろうが、大いなる拭いがたい影を落とす難物なのである。間違いはない、と思う。
僕自身の人格が、家族という難物によって、その捩じれた原型を創り出された、と感じる。勝手気儘な母親、殆ど男の人格の彼女は、いかなる意味合いにおいても、母性という愛をわが子である僕に注ぐことが出来なかった。僕は一度たりとも彼女から母性の匂いすら感じることなく青年期を迎えた。たぶん僕が何とか年齢の割にはおませな教養を身につけることで、心の欠落感を埋めることが出来たのは父親の存在があったからだ、と思う。彼は既に鬼籍に入って久しいが、小学生の僕に大人の価値意識を教え、注いだのは父親その人である。だから、僕にとっての父親とは、父性と母性を兼ね備えた人格であった、と思う。その意味においても父は僕にとって、大きな存在だった。その父が、殆ど男性性であった母によって、あろうことか、胸を包丁で差し貫かれた。父は重体だった。僕が自分の人生の中で、初めて他者を憎悪した経験は、ほかならぬ母親に対してだった。激しいまでのそれであった、と思う。許せなかった。こんな母親など要らぬ、と心底思った。この事件は思わぬ心の傷として僕の裡に留まって離れることがなかった。立ち直りを自分で意識出来たのは、長年の苦悩の果ての、僕自身の中に在る母親像の徹底的なる破壊があってのことである。そこに至るまでの女性に対する意識は、どこか母親の中の女性が持ちうる男性性に対する報復のごときものが支配的だった、と推察する。当然のことのように、僕と付き合った女性は不幸になった。自分でも修正不能の結末ばかりだった、と思う。僕にはその当時、女性を慈しむという感情が完全に欠落していた、と思う。当時の僕と出会った女性たちには深く頭を垂れる。猛省してもいる。何より、僕自身の個性が瓦解の危機に瀕していたのである。もがきつつ、崖から這い上がる術は、過去の負の遺産を破壊し尽くすことでしかなかったし、それは間違ってはいなかった、と思う。その時点から、僕の裡には新たな価値意識が再構築され始めた。永い精神の彷徨の果ての、リ・コンストラクションだった。僕はその瞬間から再生した、と思う。
家族関係であれ、夫婦関係であれ、他者との人間関係であれ、それに傷つき、疲れ果てて来訪される方々に対して、僕は決してヤワなカウンセリングなどしない。ヤワな慰めの言葉がほしければ、世の中に、癒しという言葉が氾濫しているのである。僕以外のどこにでも行けばよろしいのである。ただし、心の病が完治するか、と言えば確信を持って言うが、そのような如何なるヤワなカウンセリングにおける癒しの言葉など、殆ど無意味である。お金と時間の無駄使いに終わる。そうは言っても心の病を抱えている人々の中にも、その傷を完全に治癒することを望んでいない人たちも確実に存在するのは、不幸な現実である。こういう人たちは心の傷が、すでに個性化されてしまった人々だ。だからこそ、破壊を極端に恐れる。心地良い癒しの言葉で、その場凌ぎをしつつ、つまらない人生を生きることになる。とは言え、自分の人生なのである。選択権は本人にしかない。表層的な癒しの言葉が欲しい人は、僕のところなど訪れるべきではない。その人々たちにとっては危険な場であるからだ。自己の価値意識の全否定に直面させられる可能性だってある。だから、僕のところにいらしゃる場合は、本当に精神の病を根治したい、と思う方にしか、意味がない、と言える。
だからと言って、僕もプロのカウンセラーなのである。相談者を攻撃することを破壊と呼んでいるのではない。まさか僕がアメリカ政府のように、お節介な他国への介入をして市民を殺すような行為ににも似たことをやるはずがない。僕の言う破壊とは、相談者の心の傷の核心に触れる言葉を投げかけますよ、と言っているだけである。核心に触れて、その中の病巣を破壊しますよ、と言っているのである。そこからしか、精神の再構築などあり得ないからである。破壊し、再構築する、このプロセスの中にこそ、心の病の根治の可能性が潜んでいる、と僕は信じて疑わない。だから、僕のところに来て頂いて、途中で放棄しなかった人々は悉く治癒して、卒業される。治癒の伴わないカウンセリングなど無価値なのである。これからも、僕の方針は変わりはしない。破壊し、再構築する。これが僕の信条である。
○推薦図書「青空のルーレット」 辻内智貴著。光文社文庫。辻内の作品は、どうということのない生活の中に、生の本質を探り当てる筆力に満ちた作品が殆どです。この推薦の書も確実にその範疇に入ります。爽やかな読後感を味わいたい方にはお薦めの書です。
京都カウンセリングルーム
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃
人間、生きている限りにおいて、まずは家族という、他者からの影響は免れがたく受ける。家族とは、意外に難物であり、親が子どもを慈しみ、愛を育み、幸福に満ち溢れた家族像などは、かなりな幻像に近い、人間の想像物である。人が初めて受ける心の傷を、他ならぬ家族から受けていることが圧倒的に多い、と思われる。家族と言っても千差万別なのである。むしろ家族とは、人が生の最初に出会う毒と言っても、その定義に当てはまらない人の数の方が圧倒的に少ないのではないか、と推察する。その意味においても家族とは人の生涯に、良い意味においても、たぶん悪い意味における影響の方が大であろうが、大いなる拭いがたい影を落とす難物なのである。間違いはない、と思う。
僕自身の人格が、家族という難物によって、その捩じれた原型を創り出された、と感じる。勝手気儘な母親、殆ど男の人格の彼女は、いかなる意味合いにおいても、母性という愛をわが子である僕に注ぐことが出来なかった。僕は一度たりとも彼女から母性の匂いすら感じることなく青年期を迎えた。たぶん僕が何とか年齢の割にはおませな教養を身につけることで、心の欠落感を埋めることが出来たのは父親の存在があったからだ、と思う。彼は既に鬼籍に入って久しいが、小学生の僕に大人の価値意識を教え、注いだのは父親その人である。だから、僕にとっての父親とは、父性と母性を兼ね備えた人格であった、と思う。その意味においても父は僕にとって、大きな存在だった。その父が、殆ど男性性であった母によって、あろうことか、胸を包丁で差し貫かれた。父は重体だった。僕が自分の人生の中で、初めて他者を憎悪した経験は、ほかならぬ母親に対してだった。激しいまでのそれであった、と思う。許せなかった。こんな母親など要らぬ、と心底思った。この事件は思わぬ心の傷として僕の裡に留まって離れることがなかった。立ち直りを自分で意識出来たのは、長年の苦悩の果ての、僕自身の中に在る母親像の徹底的なる破壊があってのことである。そこに至るまでの女性に対する意識は、どこか母親の中の女性が持ちうる男性性に対する報復のごときものが支配的だった、と推察する。当然のことのように、僕と付き合った女性は不幸になった。自分でも修正不能の結末ばかりだった、と思う。僕にはその当時、女性を慈しむという感情が完全に欠落していた、と思う。当時の僕と出会った女性たちには深く頭を垂れる。猛省してもいる。何より、僕自身の個性が瓦解の危機に瀕していたのである。もがきつつ、崖から這い上がる術は、過去の負の遺産を破壊し尽くすことでしかなかったし、それは間違ってはいなかった、と思う。その時点から、僕の裡には新たな価値意識が再構築され始めた。永い精神の彷徨の果ての、リ・コンストラクションだった。僕はその瞬間から再生した、と思う。
家族関係であれ、夫婦関係であれ、他者との人間関係であれ、それに傷つき、疲れ果てて来訪される方々に対して、僕は決してヤワなカウンセリングなどしない。ヤワな慰めの言葉がほしければ、世の中に、癒しという言葉が氾濫しているのである。僕以外のどこにでも行けばよろしいのである。ただし、心の病が完治するか、と言えば確信を持って言うが、そのような如何なるヤワなカウンセリングにおける癒しの言葉など、殆ど無意味である。お金と時間の無駄使いに終わる。そうは言っても心の病を抱えている人々の中にも、その傷を完全に治癒することを望んでいない人たちも確実に存在するのは、不幸な現実である。こういう人たちは心の傷が、すでに個性化されてしまった人々だ。だからこそ、破壊を極端に恐れる。心地良い癒しの言葉で、その場凌ぎをしつつ、つまらない人生を生きることになる。とは言え、自分の人生なのである。選択権は本人にしかない。表層的な癒しの言葉が欲しい人は、僕のところなど訪れるべきではない。その人々たちにとっては危険な場であるからだ。自己の価値意識の全否定に直面させられる可能性だってある。だから、僕のところにいらしゃる場合は、本当に精神の病を根治したい、と思う方にしか、意味がない、と言える。
だからと言って、僕もプロのカウンセラーなのである。相談者を攻撃することを破壊と呼んでいるのではない。まさか僕がアメリカ政府のように、お節介な他国への介入をして市民を殺すような行為ににも似たことをやるはずがない。僕の言う破壊とは、相談者の心の傷の核心に触れる言葉を投げかけますよ、と言っているだけである。核心に触れて、その中の病巣を破壊しますよ、と言っているのである。そこからしか、精神の再構築などあり得ないからである。破壊し、再構築する、このプロセスの中にこそ、心の病の根治の可能性が潜んでいる、と僕は信じて疑わない。だから、僕のところに来て頂いて、途中で放棄しなかった人々は悉く治癒して、卒業される。治癒の伴わないカウンセリングなど無価値なのである。これからも、僕の方針は変わりはしない。破壊し、再構築する。これが僕の信条である。
○推薦図書「青空のルーレット」 辻内智貴著。光文社文庫。辻内の作品は、どうということのない生活の中に、生の本質を探り当てる筆力に満ちた作品が殆どです。この推薦の書も確実にその範疇に入ります。爽やかな読後感を味わいたい方にはお薦めの書です。
京都カウンセリングルーム
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃