○進歩と退歩
人は生きるという行為の中で、進歩と、その反対の、退歩とを繰り返しながら、日々を何とかやり過ごしている。これが生の現実ではなかろうか? 進歩の途上にあるうちは、かえって自身の置かれた環境にゆったりと想いを馳せるなどということは殆どない、と言ってよい。むしろ、退歩している状況のもとにおいて、人は自分のこれまでの生に於ける営みを、ある種感傷的に振り返るのである。たとえば、あの頃は、こうも出来た、ああも出来たというふうに、である。したがって退歩の時期も人の生きざまの中では、とても重要な要素である。進歩のありようを辿れるのが、退歩した精神の状況であるとするなら、いずれが欠けても人は生きる意味を実感できることなどあり得ない。別の言い方をすれば、生における進歩と退歩とは、希望と絶望という言葉で換言してもよい。絶望のないところに希望の光はささない。希望に満ち溢れているだけの人生などはそもそも存在しない。希望と絶望とは手を携えて在るものなのだ。だから、絶望にうちひしがれているとき、人は同時に希望という存在を心の中に内包しているのである。また逆に言えば、希望だけで有頂天になっている、まさにその瞬間に絶望の深い洞穴が口を空けて待ち構えている、と言っても過言ではない。
最も避けねばならないことは、絶望の淵に立たされているとき、絶望に希望という概念がついて廻っていることを忘却し、絶望の淵から飛び出してしまうことである。自死とは、まさにこういう観念のドラマの結末のことである。生における退歩の只なかで、進歩の存在そのものを剥奪された状態、これを絶望の淵に立つ、というのである。
生きることに倦み疲れてしまったことが誰にもあるだろう。このとき、人は自分の不幸を呪詛する。そして出口のない人生のラビリンス(迷宮)の中を彷徨するのである。彷徨の果てには必ず、光が見えるはずだが、彷徨の途上で、彷徨そのものを投げ出すと、人は不幸に慣れ親しんでしまう。不幸の連鎖が起こる。退歩の道をまっしぐらに突き進んでいくことになる。明らかな自滅である。生きていようと、死の選択をとろうと、この状況下に置かれた人間の状況は悲惨そのものである。
退歩の中から立ち上がってくることの出来る唯一の要素とは、唐突に聞こえるかも知れないが、愛という概念性である。愛こそが、人を絶望の淵からはいのぼらせてくれるエネルギーである。何故なら本物の愛とは、あくまで開かれた存在であり、開かれているが故に、開かれた隙間から光が零れ落ちてくるのである。その光を感受する能力こそが、生きる力である。愛は決していつも自分に訪れてくるものではない。愛が自己の人生から姿を消しているとき、眼前には閉じた空虚な世界が広がり、その暗闇の中で人は悶え苦しむ。絶望という名の退歩の時期を生きているのである。生命力とひと言で表現されるが、生命力に溢れた人は、絶望という名の、暗黒の、退歩の只なかで、密やかに息を堪えて、光の訪れを待つ。愛という名の光は、その意味において生きる力と直結している存在である。絶望に打ちひしがれ、いつまでもその閉ざされた暗黒の世界に留まっている人に、愛という祝福は到来しない。愛が全ての暗黒の世界を押し開く。そこにこそ進歩の概念が生じるのだ。換言すれば、退歩とは、進歩の到来をより鮮明にするためのスパイスのごとき存在である。退歩があってこその進歩なのである。繰り返すが、進歩と退歩とは手を携えて訪れる。そして退歩から進歩への足がかりとしての、最も重要な役割りを果たすのが、愛という開かれた概念である。男女の愛も、広く人類愛におけるそれも、すべては開かれた存在である。愛ゆえに人が傷つけあうのは、正確に言うと、それは愛ではない。愛と裏腹の憎悪という暗黒の閉じた世界の出来事である。退歩の只なかの出来事でもある。人を愛するとは、己れの世界観を進歩という概念で、おしひろげていく精神のドラマでもある。だからこそ、愛には生のダイナミズムが漲っているのである。人を愛そうではないか! そこにこそ生の可能性を広げるチャンスがあるからである。今日の観想である。
○推薦図書「真空管」 甘糟りり子著。文藝春秋刊。甘糟の作品の中でも、見事に退歩の世界像だけで成立しているような小説世界です。こういう世界に身を浸すことによって、逆に生の進歩の意味を汲み取ってください。甘糟の、仕掛けにはまらぬようにお読みください。
京都カウンセリングルーム
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃
人は生きるという行為の中で、進歩と、その反対の、退歩とを繰り返しながら、日々を何とかやり過ごしている。これが生の現実ではなかろうか? 進歩の途上にあるうちは、かえって自身の置かれた環境にゆったりと想いを馳せるなどということは殆どない、と言ってよい。むしろ、退歩している状況のもとにおいて、人は自分のこれまでの生に於ける営みを、ある種感傷的に振り返るのである。たとえば、あの頃は、こうも出来た、ああも出来たというふうに、である。したがって退歩の時期も人の生きざまの中では、とても重要な要素である。進歩のありようを辿れるのが、退歩した精神の状況であるとするなら、いずれが欠けても人は生きる意味を実感できることなどあり得ない。別の言い方をすれば、生における進歩と退歩とは、希望と絶望という言葉で換言してもよい。絶望のないところに希望の光はささない。希望に満ち溢れているだけの人生などはそもそも存在しない。希望と絶望とは手を携えて在るものなのだ。だから、絶望にうちひしがれているとき、人は同時に希望という存在を心の中に内包しているのである。また逆に言えば、希望だけで有頂天になっている、まさにその瞬間に絶望の深い洞穴が口を空けて待ち構えている、と言っても過言ではない。
最も避けねばならないことは、絶望の淵に立たされているとき、絶望に希望という概念がついて廻っていることを忘却し、絶望の淵から飛び出してしまうことである。自死とは、まさにこういう観念のドラマの結末のことである。生における退歩の只なかで、進歩の存在そのものを剥奪された状態、これを絶望の淵に立つ、というのである。
生きることに倦み疲れてしまったことが誰にもあるだろう。このとき、人は自分の不幸を呪詛する。そして出口のない人生のラビリンス(迷宮)の中を彷徨するのである。彷徨の果てには必ず、光が見えるはずだが、彷徨の途上で、彷徨そのものを投げ出すと、人は不幸に慣れ親しんでしまう。不幸の連鎖が起こる。退歩の道をまっしぐらに突き進んでいくことになる。明らかな自滅である。生きていようと、死の選択をとろうと、この状況下に置かれた人間の状況は悲惨そのものである。
退歩の中から立ち上がってくることの出来る唯一の要素とは、唐突に聞こえるかも知れないが、愛という概念性である。愛こそが、人を絶望の淵からはいのぼらせてくれるエネルギーである。何故なら本物の愛とは、あくまで開かれた存在であり、開かれているが故に、開かれた隙間から光が零れ落ちてくるのである。その光を感受する能力こそが、生きる力である。愛は決していつも自分に訪れてくるものではない。愛が自己の人生から姿を消しているとき、眼前には閉じた空虚な世界が広がり、その暗闇の中で人は悶え苦しむ。絶望という名の退歩の時期を生きているのである。生命力とひと言で表現されるが、生命力に溢れた人は、絶望という名の、暗黒の、退歩の只なかで、密やかに息を堪えて、光の訪れを待つ。愛という名の光は、その意味において生きる力と直結している存在である。絶望に打ちひしがれ、いつまでもその閉ざされた暗黒の世界に留まっている人に、愛という祝福は到来しない。愛が全ての暗黒の世界を押し開く。そこにこそ進歩の概念が生じるのだ。換言すれば、退歩とは、進歩の到来をより鮮明にするためのスパイスのごとき存在である。退歩があってこその進歩なのである。繰り返すが、進歩と退歩とは手を携えて訪れる。そして退歩から進歩への足がかりとしての、最も重要な役割りを果たすのが、愛という開かれた概念である。男女の愛も、広く人類愛におけるそれも、すべては開かれた存在である。愛ゆえに人が傷つけあうのは、正確に言うと、それは愛ではない。愛と裏腹の憎悪という暗黒の閉じた世界の出来事である。退歩の只なかの出来事でもある。人を愛するとは、己れの世界観を進歩という概念で、おしひろげていく精神のドラマでもある。だからこそ、愛には生のダイナミズムが漲っているのである。人を愛そうではないか! そこにこそ生の可能性を広げるチャンスがあるからである。今日の観想である。
○推薦図書「真空管」 甘糟りり子著。文藝春秋刊。甘糟の作品の中でも、見事に退歩の世界像だけで成立しているような小説世界です。こういう世界に身を浸すことによって、逆に生の進歩の意味を汲み取ってください。甘糟の、仕掛けにはまらぬようにお読みください。
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文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃