○戦後民主主義という時代性を再評価する時期ではなかろうか?
戦後民主主義と聞いてもピンと来ない青年諸氏が殆どだろう。当然である。いま、彼らが自分のまわりをどのように目を皿のようにして探しても、そんな価値は消失してしまっている。ザラついた生きづらい世界が自分たちのまわりをとりまいている、と思う。
戦前・戦中を通して日本という国は、軍国主義という名の西欧式の大国主義に憧れ、かつて西欧諸国が、勝手気儘に他国に侵入し、植民地にし、植民地と化した国の市民をこき使って、自国の利益をエゴイスティックに追求したように、遅れ馳せながらの、大国主義・帝国主義の仲間入りを日本は果たそうとしたわけである。それがアジア諸国の植民地化を促した。日本語を強要し、日本文化を無理矢理にねじ込んだ。それが、第2次大戦における犯罪的行為という悲劇を生み出した。日本は、ここにおいても西欧の物まねを演じ、脆くも失敗した。日本の行為を正当化など出来るはずがない。批判されるべき行為だろう、と思う。しかし、西欧諸国においても、かつての植民地支配における犯罪行為を消し去ることなど出来はしないのである。所詮、大国主義といい、帝国主義といい、それらは、他国の犠牲の上に成り立った砂の城である。いずれは崩壊する。だが、悲惨な支配化に置かれた非支配者としての、民衆の怒り、嘆き、苦しみ、は重い現実として認識されてしかるべきである。
第2次大戦の戦勝国に、敗戦国としての日本に弾劾を下す権利など毛頭ない。極東軍事裁判という名の、見せしめ的な復讐劇などに何の意味もない。とりわけ、東京・大阪の大空襲をはじめ、広島・長崎への原爆投下実験を実行したアメリカなどに、日本を裁く権利などない。それならば、日本がアジア諸国に対して行った非人間的な支配が裁かれるのと、同じ質量で、アメリカを筆頭にした所謂戦勝国も、非戦闘員に対して行った大量虐殺の裁きを受けるべきである。この問題は決して勝ち負けの問題にすり替えてはならない重要な、戦争がもたらした惨劇のケジメとして、戦勝国・敗戦国ともどもに受けるべき裁きだろう、と僕は思う。こういう思想抜きの世界平和などは、絵に描いた餅そのものである。これを書いている間も、世界中で、非戦闘員の殺戮は絶えることなく起こりつづけているではないか。そもそも国連などという存在自体が虚妄である。常任理事国はすべて第2次大戦の戦勝国だけで占められていること自体が正常ではない。核拡散防止条約ほど説得力のない取り決めはない。勝ち組だけに許される核の保有などの、一体どこに説得力があるだろうか? 国連に、インドやパキスタンや、その他の諸国に核拡散を阻止出来るだけの理屈がそもそもないのである。核の拡散を防止するなどという誤魔化しをやらないで、全ての核保有国が、核の放棄を果たすべきだろう。こんな単純なことも出来ないで、何が世界平和なのか? 細々とした国連の諸活動の成果は認めるにしても、国連が存在するための本質のところにそもそも矛盾がある故に、その成果が上がらないのである。非同盟諸国の趨勢は好ましいことだが、圧倒的な数の論理では勝つものの、国連という組織そのものが、大国主義による戦勝国が支配している存在なのである。非同盟諸国が決定権を有する見込みはまずないだろう。ただ、これだけの経済的発展を遂げた国として、日本が非同盟諸国に参加することこそが意味ある行為ではなかろうか? なのに、日本は成しえないことをやろうとしている。常任理事国入りが課題だと言う。アホか? と思う。日本に原爆投下したアメリカが許すはずがないではないか。アメリカが主張しているような、日本の敗戦を早めるために原爆を投下した、という屁理屈が通らなくなるのである。少し考えればわかりそうなものではないか? 日本の常任理事国入りなど永遠に実現しない。ならば、進むべき方向を定めるべきではないか? いつまで日本政府はアメリカという国に卑屈に従っているのだろうか?
日本国憲法が、アメリカに押しつけられた、日本に軍備を持たせないための憲法であるにせよ、しかし、その憲法の中に展開された思想は、意識的なものか無意識的なものなのかは分からないが、当のアメリカ自体が、人類の歴史を再構築する上において、永遠なる理想主義を盛り込んだ結果の産物である。その代表的な条項こそ、第9条の戦争の放棄だ。かつて、どの国にもなし得なかった理想だ。日本は、この人類史上、かつて存在し得なかった壮大な実験を課されたのであり、見事にやってのけてきたのである。自衛隊という名の憲法違反の存在はあるにせよ、日本があからさまな軍需産業に手を染めずに戦後の復興をなし遂げたことは評価に値する、と僕は思う。国連の常任理事国はその国の基幹産業に、必ず「死の商人」たる軍需産業が居すわっている。
憲法第9条について、かつて書いたブログを読んで、オーストラリアに勇敢に飛び出した好青年が、長野さんの書いた憲法の問題提起は、率直に言って、どんな政治学者にも一笑にふされるだろう、と手痛い批判を投げて寄越した。しかし、考えてもみよ。この時代の政治学者といい、政治評論家と言っても、右翼的な思想を展開して生業を立てている輩は、大抵は大学教授の安穏とした椅子に腰かけて物を言っているに過ぎないのである。単に時代の趨勢に乗っかって、本質の論議をしていないだけの話なのである。彼にはたぶん、筋金入りの小田 実などの戦後の民主主義の考え方などは夢想的にすら見えるのだろう、と推察する。しかし、戦後民主主義という時代背景は、日本国憲法の平和主義が産み落とした重要な副産物である。ゆるやかな社会主義としての終身雇用制度もあれば、労働組合による春闘によって、市民の生活は徐々によくなっていったのである。それに比してかまびすしい政治学者たちの論理など、これまた西欧のものまねに過ぎない借物の思想である。日本の平和主義が薄まっていく過程で、労働者としての市民の暮らしも厳しくなるばかりだ。春闘も名ばかりの存在になってしまった。あの優秀なる青年にして、これなのだ。なぜこの21世紀がかくも生きがたい時代になったのか、という分析すら出来なくなっている。全てが借物の思想で毒されている。時折オーストラリアから国際電話がかかって来る。彼にはこの本質を絶対に気づいてほしいものだ。世界の本質を見極める思想の核をしっかりと創造してほしいのである。僕は敢えて頑迷なる中高年として、かの青年に立ち向かおうと決意した。間違ってはいない、と確信している。今日の観想である。
○推薦図書「覇権か、生存か」 ノーム・チョムスキー著。集英社新書。アメリカの世界戦略と人類の未来についての、大胆で勇敢な思索を言語学者としての目を通しての厳しい考察です。ぜひ、一読してほしい書です。
京都カウンセリングルーム
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃
戦後民主主義と聞いてもピンと来ない青年諸氏が殆どだろう。当然である。いま、彼らが自分のまわりをどのように目を皿のようにして探しても、そんな価値は消失してしまっている。ザラついた生きづらい世界が自分たちのまわりをとりまいている、と思う。
戦前・戦中を通して日本という国は、軍国主義という名の西欧式の大国主義に憧れ、かつて西欧諸国が、勝手気儘に他国に侵入し、植民地にし、植民地と化した国の市民をこき使って、自国の利益をエゴイスティックに追求したように、遅れ馳せながらの、大国主義・帝国主義の仲間入りを日本は果たそうとしたわけである。それがアジア諸国の植民地化を促した。日本語を強要し、日本文化を無理矢理にねじ込んだ。それが、第2次大戦における犯罪的行為という悲劇を生み出した。日本は、ここにおいても西欧の物まねを演じ、脆くも失敗した。日本の行為を正当化など出来るはずがない。批判されるべき行為だろう、と思う。しかし、西欧諸国においても、かつての植民地支配における犯罪行為を消し去ることなど出来はしないのである。所詮、大国主義といい、帝国主義といい、それらは、他国の犠牲の上に成り立った砂の城である。いずれは崩壊する。だが、悲惨な支配化に置かれた非支配者としての、民衆の怒り、嘆き、苦しみ、は重い現実として認識されてしかるべきである。
第2次大戦の戦勝国に、敗戦国としての日本に弾劾を下す権利など毛頭ない。極東軍事裁判という名の、見せしめ的な復讐劇などに何の意味もない。とりわけ、東京・大阪の大空襲をはじめ、広島・長崎への原爆投下実験を実行したアメリカなどに、日本を裁く権利などない。それならば、日本がアジア諸国に対して行った非人間的な支配が裁かれるのと、同じ質量で、アメリカを筆頭にした所謂戦勝国も、非戦闘員に対して行った大量虐殺の裁きを受けるべきである。この問題は決して勝ち負けの問題にすり替えてはならない重要な、戦争がもたらした惨劇のケジメとして、戦勝国・敗戦国ともどもに受けるべき裁きだろう、と僕は思う。こういう思想抜きの世界平和などは、絵に描いた餅そのものである。これを書いている間も、世界中で、非戦闘員の殺戮は絶えることなく起こりつづけているではないか。そもそも国連などという存在自体が虚妄である。常任理事国はすべて第2次大戦の戦勝国だけで占められていること自体が正常ではない。核拡散防止条約ほど説得力のない取り決めはない。勝ち組だけに許される核の保有などの、一体どこに説得力があるだろうか? 国連に、インドやパキスタンや、その他の諸国に核拡散を阻止出来るだけの理屈がそもそもないのである。核の拡散を防止するなどという誤魔化しをやらないで、全ての核保有国が、核の放棄を果たすべきだろう。こんな単純なことも出来ないで、何が世界平和なのか? 細々とした国連の諸活動の成果は認めるにしても、国連が存在するための本質のところにそもそも矛盾がある故に、その成果が上がらないのである。非同盟諸国の趨勢は好ましいことだが、圧倒的な数の論理では勝つものの、国連という組織そのものが、大国主義による戦勝国が支配している存在なのである。非同盟諸国が決定権を有する見込みはまずないだろう。ただ、これだけの経済的発展を遂げた国として、日本が非同盟諸国に参加することこそが意味ある行為ではなかろうか? なのに、日本は成しえないことをやろうとしている。常任理事国入りが課題だと言う。アホか? と思う。日本に原爆投下したアメリカが許すはずがないではないか。アメリカが主張しているような、日本の敗戦を早めるために原爆を投下した、という屁理屈が通らなくなるのである。少し考えればわかりそうなものではないか? 日本の常任理事国入りなど永遠に実現しない。ならば、進むべき方向を定めるべきではないか? いつまで日本政府はアメリカという国に卑屈に従っているのだろうか?
日本国憲法が、アメリカに押しつけられた、日本に軍備を持たせないための憲法であるにせよ、しかし、その憲法の中に展開された思想は、意識的なものか無意識的なものなのかは分からないが、当のアメリカ自体が、人類の歴史を再構築する上において、永遠なる理想主義を盛り込んだ結果の産物である。その代表的な条項こそ、第9条の戦争の放棄だ。かつて、どの国にもなし得なかった理想だ。日本は、この人類史上、かつて存在し得なかった壮大な実験を課されたのであり、見事にやってのけてきたのである。自衛隊という名の憲法違反の存在はあるにせよ、日本があからさまな軍需産業に手を染めずに戦後の復興をなし遂げたことは評価に値する、と僕は思う。国連の常任理事国はその国の基幹産業に、必ず「死の商人」たる軍需産業が居すわっている。
憲法第9条について、かつて書いたブログを読んで、オーストラリアに勇敢に飛び出した好青年が、長野さんの書いた憲法の問題提起は、率直に言って、どんな政治学者にも一笑にふされるだろう、と手痛い批判を投げて寄越した。しかし、考えてもみよ。この時代の政治学者といい、政治評論家と言っても、右翼的な思想を展開して生業を立てている輩は、大抵は大学教授の安穏とした椅子に腰かけて物を言っているに過ぎないのである。単に時代の趨勢に乗っかって、本質の論議をしていないだけの話なのである。彼にはたぶん、筋金入りの小田 実などの戦後の民主主義の考え方などは夢想的にすら見えるのだろう、と推察する。しかし、戦後民主主義という時代背景は、日本国憲法の平和主義が産み落とした重要な副産物である。ゆるやかな社会主義としての終身雇用制度もあれば、労働組合による春闘によって、市民の生活は徐々によくなっていったのである。それに比してかまびすしい政治学者たちの論理など、これまた西欧のものまねに過ぎない借物の思想である。日本の平和主義が薄まっていく過程で、労働者としての市民の暮らしも厳しくなるばかりだ。春闘も名ばかりの存在になってしまった。あの優秀なる青年にして、これなのだ。なぜこの21世紀がかくも生きがたい時代になったのか、という分析すら出来なくなっている。全てが借物の思想で毒されている。時折オーストラリアから国際電話がかかって来る。彼にはこの本質を絶対に気づいてほしいものだ。世界の本質を見極める思想の核をしっかりと創造してほしいのである。僕は敢えて頑迷なる中高年として、かの青年に立ち向かおうと決意した。間違ってはいない、と確信している。今日の観想である。
○推薦図書「覇権か、生存か」 ノーム・チョムスキー著。集英社新書。アメリカの世界戦略と人類の未来についての、大胆で勇敢な思索を言語学者としての目を通しての厳しい考察です。ぜひ、一読してほしい書です。
京都カウンセリングルーム
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃