何日か前に、僕の「死刑廃止論者に物申す」というブログにコメントを入れてくれた青年がお二人いた。そのうちのお一人が、ご自身でもブログを開設しておられて、読ませていただいたが、すばらしく頭脳明晰、彼の深い思索の跡を辿ることが出来て、50代半ばの僕としてはうれしい、のひと言に尽きる。こういう青年がたくさん出てきてほしいものである。ご本人はポスト・モダニストだ、と宣言されているが、僕の読むところ、すでに彼はポスト・モダニズムを超えて、ポスト・ポスト・モダニストの立場から世界を捉えておられるようである。何ともすばらしいことではないか。すばらしい知性だ、と思う。これからも大切に伸ばしてくださることを心より願う。
さて、僕は、このような青年に出会うと、心がざわめく。たぶん自分の心の中に、いまとなっては亡霊のような青年像が居すわっているからだろう、と思う。想像するに、もはやその姿など、ミイラ化したような、人間の残滓のような存在だろう、とも思う。多くの人々はこのような腐臭さえ放つ存在はとうの昔にさっさとドブにでも捨てて、文字どおり大人としての人生を歩んでおられることと推察する。まずはそのような生きかたが正常か、と思う。しかし、僕の裡なる青年の残滓のごとき、朽ち果てつつある精神の回路が、なにほどか青年の心を捉えて離さない熱情のごとき心性を見逃すことなく捉えてしまう。俗に言うと青臭い思想ということになるのだろうが、僕の人生の選択肢の中においては、それはかなり重要な要素である。大袈裟に言えば、死するまで青臭く生き抜いてやる、という覚悟のような烈情が細々とではあるが、その細々とした炎は消え果てることがない。
生きることにいつまでも抗っている自分がいる。青年の頃の、自己否定が底にあるような全肯定でもなく、全否定でもない、ある種の平衡感覚のごとき精神の型が出来上がってしまった感がある。誤解を受けるといけないので、敢えて書いておくと、僕の裡なる平衡感覚とは、両極端の思想の中間点を探るようなそれではない。だから決して円みのある思想の型ではあり得ないのも事実なのである。何をもって両極端というのかはともかくも、僕の平衡感覚とは、何れの側にも時と場合によっては限りなく極点まで接近するような性質のもの、と考えていただければよい。だから僕の裡では、たとえば平和主義もテロリズムも同じ質量で容認し得る存在である。勿論、両者を例にとるならば、その実践に於ける心の構えも具体的方法論においても、そのアプローチの仕方が異なるのは当然のことである。僕が言いたいのは、裡なる精神の状況には、如何なる意味においても、世間的な意味合いにおける妥協点などは存在しない、ということである。死の方が近しい人間が言うことではないのかも知れないが、たぶん僕は死の瞬間まで、このような思想傾向は変わらず存在し続けるだろう、と思う。また、それを修正する意思も持ち合わせてはいない。
世の中は、社会主義や共産主義の幻影から醒めた、と思う。だからと言って、資本主義が社会における人間の経済活動、社会活動として、最も妥当なものなのか? というと決してそうではなかろう、と思う。いまや世の中にごまんといる歴史修正主義者や新保守主義者たちのように、自己都合が支配的なる主観主義の捩れた思想には、僕は汲みしない。簡単な言葉で言えば、こういう輩は、自分たちで時代の趨勢を切り開いてきた思想家たちでは決してない。むしろ時代が自然に流れる方向をただ待ち望んでいた、右翼的な待望論者たちに過ぎない。だから僕は、この種の喧しい論争には何の意味もない、と思っている。青年諸氏を騙す結果を招くだけである。そして、こういう右翼的待望論者たちは、大概が若者を危険な場へと誘う人々である。戦争しかり、戦争支援しかり、である。自分たちは安寧とした安全極まりないところに居つつ、若者たちを駆り立てる。だからこそ、一見分かりやすい歴史解釈には、一度立ち止まって、その真偽を確かめる姿勢が要求されるのである。そうでなければ、犠牲者になるのは、死の方が近しい僕らの世代ではなく、この先の世界を創造すべき若者たちが、危ない橋を渡ることになりかねない。青年諸氏よ、あくまで冷徹であれ !
○推薦図書「未来派左翼(下)」アントニオ・ネグリ著。NHKブックス。具体的な世界情勢から、現実の分析がなされています。歴史教科書すら改ざんされようとしている時代なのです。どうぞ、青年諸氏こそ、この書をお読みください。この書は上・下刊で出ています。少し以前に上巻を紹介しました。そちらの方も含めてお読みください。お薦めです。
さて、僕は、このような青年に出会うと、心がざわめく。たぶん自分の心の中に、いまとなっては亡霊のような青年像が居すわっているからだろう、と思う。想像するに、もはやその姿など、ミイラ化したような、人間の残滓のような存在だろう、とも思う。多くの人々はこのような腐臭さえ放つ存在はとうの昔にさっさとドブにでも捨てて、文字どおり大人としての人生を歩んでおられることと推察する。まずはそのような生きかたが正常か、と思う。しかし、僕の裡なる青年の残滓のごとき、朽ち果てつつある精神の回路が、なにほどか青年の心を捉えて離さない熱情のごとき心性を見逃すことなく捉えてしまう。俗に言うと青臭い思想ということになるのだろうが、僕の人生の選択肢の中においては、それはかなり重要な要素である。大袈裟に言えば、死するまで青臭く生き抜いてやる、という覚悟のような烈情が細々とではあるが、その細々とした炎は消え果てることがない。
生きることにいつまでも抗っている自分がいる。青年の頃の、自己否定が底にあるような全肯定でもなく、全否定でもない、ある種の平衡感覚のごとき精神の型が出来上がってしまった感がある。誤解を受けるといけないので、敢えて書いておくと、僕の裡なる平衡感覚とは、両極端の思想の中間点を探るようなそれではない。だから決して円みのある思想の型ではあり得ないのも事実なのである。何をもって両極端というのかはともかくも、僕の平衡感覚とは、何れの側にも時と場合によっては限りなく極点まで接近するような性質のもの、と考えていただければよい。だから僕の裡では、たとえば平和主義もテロリズムも同じ質量で容認し得る存在である。勿論、両者を例にとるならば、その実践に於ける心の構えも具体的方法論においても、そのアプローチの仕方が異なるのは当然のことである。僕が言いたいのは、裡なる精神の状況には、如何なる意味においても、世間的な意味合いにおける妥協点などは存在しない、ということである。死の方が近しい人間が言うことではないのかも知れないが、たぶん僕は死の瞬間まで、このような思想傾向は変わらず存在し続けるだろう、と思う。また、それを修正する意思も持ち合わせてはいない。
世の中は、社会主義や共産主義の幻影から醒めた、と思う。だからと言って、資本主義が社会における人間の経済活動、社会活動として、最も妥当なものなのか? というと決してそうではなかろう、と思う。いまや世の中にごまんといる歴史修正主義者や新保守主義者たちのように、自己都合が支配的なる主観主義の捩れた思想には、僕は汲みしない。簡単な言葉で言えば、こういう輩は、自分たちで時代の趨勢を切り開いてきた思想家たちでは決してない。むしろ時代が自然に流れる方向をただ待ち望んでいた、右翼的な待望論者たちに過ぎない。だから僕は、この種の喧しい論争には何の意味もない、と思っている。青年諸氏を騙す結果を招くだけである。そして、こういう右翼的待望論者たちは、大概が若者を危険な場へと誘う人々である。戦争しかり、戦争支援しかり、である。自分たちは安寧とした安全極まりないところに居つつ、若者たちを駆り立てる。だからこそ、一見分かりやすい歴史解釈には、一度立ち止まって、その真偽を確かめる姿勢が要求されるのである。そうでなければ、犠牲者になるのは、死の方が近しい僕らの世代ではなく、この先の世界を創造すべき若者たちが、危ない橋を渡ることになりかねない。青年諸氏よ、あくまで冷徹であれ !
○推薦図書「未来派左翼(下)」アントニオ・ネグリ著。NHKブックス。具体的な世界情勢から、現実の分析がなされています。歴史教科書すら改ざんされようとしている時代なのです。どうぞ、青年諸氏こそ、この書をお読みください。この書は上・下刊で出ています。少し以前に上巻を紹介しました。そちらの方も含めてお読みください。お薦めです。