今日は妻の実家に立ち寄った。妻には姉がいて、4歳の息子と2歳の娘がいる。離婚し、いや、離婚する数年前から、妻の実家に家族ごと転がり込んだのである。父親は何とも頼りにならない男で、車だけが趣味の、無教養な人間だ。幼い頃から実の父親の存在を知らされず、母親は祇園のクラブを経営して一稼ぎした女傑だ。金の有り余る男を旦那にし、何人もの金ヅルを渡り歩いた。京都の高級住宅地に豪邸を構え、足には新型のビートルを乗り回す。いまも何人目なのかは定かでないが、旦那のいる身である。そんな境遇にあっても、自力で己れの人生を切り開いていく人間もいるだろうに、反抗という名の甘えで、いつまでも憎んでいるはずの親からの金銭的援助を当てにしているつまらない男だ。義姉も男を見る目がなかったのだから致し方ないが、二人目の子どもを出産した直後、出奔同然の形で、義姉の実家を飛び出した。家族を何らの責任も果たさず棄てたのだ。中古のアメ車に乗って、満足している馬鹿だ。たった3万円ずつの養育費が払えずに、憎んでいる小金をため込んでいる母親に泣きついた。どういうわけか、その身勝手な母親が唯一頼りにしているのは、この僕である。家内の居ない時間を計ったように電話をしてくる。息子はバカなことはよく分かっているが、あの子の給与から月々6万円の出費はあまりに厳しい。自分ももうこれ以上の負担はできないが、10年ものの保険に入ったので、それが満期になるまで養育費の支払いを10年間先送りにしてくれないか? という申し出だった。さすがに僕も空いた口が塞がらなかった。僕に義姉に話してくれ、という依頼だったが、本人に直接言ってほしい、というのが精一杯だった。不快な気分がしばらく僕を支配した。棄てられた二人の子どもの顔が浮かんだ。義姉にも心の余裕はまるでないから、子育ては、古希をとうに越えた父親と、60代後半の心優しい母親が、実質的な父親、母親代わりである。お年寄りにはまことにきつい晩年である。ご両親の健康を願うばかりである。
親はなくても子は育つ、というが、まさにこの二人は祖父母の努力の甲斐あってよく育ってくれている。下の女の子はまだ幼いだけだが、今年5歳になる長男は、繊細だが口数も多く、僕にとってもかわいいばかりの存在である。その子が公園に遊びに連れていけ、と言う。勿論気の済むまで付き合ってやるつもりだったが、出かける直前に、彼はボソっと言った。「おとうさん、全然会いにきてくれへんなあ」と。実の父親が世話になっていた義姉の実家を出てから、一度たりとも子どもには会いには来ていない。当然子どもたちも、そんな父親のことなど、記憶から飛んでしまっていると僕は思い込んでいたのである。「おとうさん、全然会いにきてくれへんなあ」という素朴な彼の言葉が僕の胸に突き刺さった。その言葉によって、これから出かけるはずの公園での遊びが、真剣なそれに僕の心の中で唐突に変質した。僕の、とうに自立した二人の息子の子育ての経験の後を辿ってみても、 子どもを、これほど真面目に遊んでやることに心を砕いた経験はない。どういうわけか、僕はむきになってこの子に、限られた時間の中で、体を張って何かを伝えたいと思った。大したことは何も出来ないだろうが、公園に行く道すがら、僕の頭はフルに回転していたように思う。
公園には懐かしい遊び道具が整っていた。ご多分にもれず、最初はブランコだ。この子の後ろから押してやる? いや、そんなことではダメだ、と思いなおした。僕は隣のブランコに座って、見ていろよ、と大仰に声を駆け、思い切りブランコをこいで、ジャンプした。何十年ぶりかの試みだった。飛距離は決して満足できるものではなかった。それでも彼は喜んでくれたが、こんな中途半端なことで喜んでもらっては困る、と思いなおした。再度の挑戦だ。今度はさらに大きな弧を描いて、できるだけ遠くへ飛んでやるのだ、と、無闇に力を込めてブランコを力一杯にこいだ。ジャンプした。それは僕の感覚の中では、思いどおりのジャンプだった。これこそ真面目な大人のジャンプだ、と思いつつ大きな弧を描いて空中に飛び出したが、バランスを崩した。自分の歳を考えない横暴なる試みは、勢い余って着地した瞬間に、僕の体は前につんのめった。両の手の平が長らく忘れていた土の感触を直に感じ取った。右足の膝の下あたりにも、同じ感覚を感じ取った。両の手の平は3箇所づつ、大きく皮が剥けていた。血が滲み出した。右足の膝の下あたりでは、じっとりとした血液が滲み出ているような感触がした。両手は血まみれ、右足のパンツからは血が滲み出した。
自分の不甲斐なさを呪ったが、同時に子どもの感性は凄いと思った。彼はギョッとした顔をしたが、僕の失敗した姿を笑うのではなく、その失敗を認めたのである。彼の目はキラキラと輝いていた、と思う。かなり痛ましい傷とその傷から流れ出る血の量の多さなど、何でもないことだ、と心底思った。一瞬でも、「おとうさん、全然会いにきてくれへんなあ」という言葉を凌駕出来ればそれで十分意味がある、と思ったからだ。また、そうでなければ、この子があまりにかわいそうだという感覚から僕は解放されなかった、と思う。彼は、僕の無様だっただろう姿に対して、凄いなあ、と呟いた。もう傷の痛みなどどこかへ吹っ飛んだ。これでよかったのだ、と思った。血を流しながら、別の公園に行ったら、滑り台があった、ええい、同じなら骨折しても、何かこの子に特別な滑り方を教えてやろう、と決意した。当初は、滑り台の上から立ったままに、両手を広げて駆け降りるという構想だったが、やろうとしたら、思いの他、この滑り台はよく滑るので、急遽計画を変更して、両手を広げて、膝を少し曲げて立ったまま滑り降りることにした。3度目に実演した折に、右の足首に鈍い痛みが走ったが、構うものか、と思った。この子は最初、両手で左右の枠をつかみながら滑っていたのでスピードも出なかった。が、僕の無謀な滑りから、両手を広げて座ったまま、これまでのたぶん倍のスピードで滑り降りてきた。おお、凄いじゃあないか! と心底感心したら、明日の幼稚園で友だちに教えてやるのだ、と言う。
歳老いた体にはかなりなダメージを受けたが、たぶん、この子にとって、記憶の片すみにでも今日のことが残ってくれたら、この上ない幸せだ、と感じ取ることが出来る。傷の痛みがこれほど心地良かったことは、僕の人生の中では、初めてのことだ。痛みにも歓びがともなうこともあるのだ、と実感した一日だった。今日の観想である。
○推薦図書「夕映えの人」 加賀乙彦著。小学館刊。60歳を迎えようとする初老の男の人生への慈しみが見事に小説世界の中に描かれています。青春小説の大いなるファンですが、今年55歳になんなんとする僕には、真逆の視点からの人生の見直しの時期でもあるだろうと感じています。その意味でのお薦めの書です。よろしければ、どうぞ。
親はなくても子は育つ、というが、まさにこの二人は祖父母の努力の甲斐あってよく育ってくれている。下の女の子はまだ幼いだけだが、今年5歳になる長男は、繊細だが口数も多く、僕にとってもかわいいばかりの存在である。その子が公園に遊びに連れていけ、と言う。勿論気の済むまで付き合ってやるつもりだったが、出かける直前に、彼はボソっと言った。「おとうさん、全然会いにきてくれへんなあ」と。実の父親が世話になっていた義姉の実家を出てから、一度たりとも子どもには会いには来ていない。当然子どもたちも、そんな父親のことなど、記憶から飛んでしまっていると僕は思い込んでいたのである。「おとうさん、全然会いにきてくれへんなあ」という素朴な彼の言葉が僕の胸に突き刺さった。その言葉によって、これから出かけるはずの公園での遊びが、真剣なそれに僕の心の中で唐突に変質した。僕の、とうに自立した二人の息子の子育ての経験の後を辿ってみても、 子どもを、これほど真面目に遊んでやることに心を砕いた経験はない。どういうわけか、僕はむきになってこの子に、限られた時間の中で、体を張って何かを伝えたいと思った。大したことは何も出来ないだろうが、公園に行く道すがら、僕の頭はフルに回転していたように思う。
公園には懐かしい遊び道具が整っていた。ご多分にもれず、最初はブランコだ。この子の後ろから押してやる? いや、そんなことではダメだ、と思いなおした。僕は隣のブランコに座って、見ていろよ、と大仰に声を駆け、思い切りブランコをこいで、ジャンプした。何十年ぶりかの試みだった。飛距離は決して満足できるものではなかった。それでも彼は喜んでくれたが、こんな中途半端なことで喜んでもらっては困る、と思いなおした。再度の挑戦だ。今度はさらに大きな弧を描いて、できるだけ遠くへ飛んでやるのだ、と、無闇に力を込めてブランコを力一杯にこいだ。ジャンプした。それは僕の感覚の中では、思いどおりのジャンプだった。これこそ真面目な大人のジャンプだ、と思いつつ大きな弧を描いて空中に飛び出したが、バランスを崩した。自分の歳を考えない横暴なる試みは、勢い余って着地した瞬間に、僕の体は前につんのめった。両の手の平が長らく忘れていた土の感触を直に感じ取った。右足の膝の下あたりにも、同じ感覚を感じ取った。両の手の平は3箇所づつ、大きく皮が剥けていた。血が滲み出した。右足の膝の下あたりでは、じっとりとした血液が滲み出ているような感触がした。両手は血まみれ、右足のパンツからは血が滲み出した。
自分の不甲斐なさを呪ったが、同時に子どもの感性は凄いと思った。彼はギョッとした顔をしたが、僕の失敗した姿を笑うのではなく、その失敗を認めたのである。彼の目はキラキラと輝いていた、と思う。かなり痛ましい傷とその傷から流れ出る血の量の多さなど、何でもないことだ、と心底思った。一瞬でも、「おとうさん、全然会いにきてくれへんなあ」という言葉を凌駕出来ればそれで十分意味がある、と思ったからだ。また、そうでなければ、この子があまりにかわいそうだという感覚から僕は解放されなかった、と思う。彼は、僕の無様だっただろう姿に対して、凄いなあ、と呟いた。もう傷の痛みなどどこかへ吹っ飛んだ。これでよかったのだ、と思った。血を流しながら、別の公園に行ったら、滑り台があった、ええい、同じなら骨折しても、何かこの子に特別な滑り方を教えてやろう、と決意した。当初は、滑り台の上から立ったままに、両手を広げて駆け降りるという構想だったが、やろうとしたら、思いの他、この滑り台はよく滑るので、急遽計画を変更して、両手を広げて、膝を少し曲げて立ったまま滑り降りることにした。3度目に実演した折に、右の足首に鈍い痛みが走ったが、構うものか、と思った。この子は最初、両手で左右の枠をつかみながら滑っていたのでスピードも出なかった。が、僕の無謀な滑りから、両手を広げて座ったまま、これまでのたぶん倍のスピードで滑り降りてきた。おお、凄いじゃあないか! と心底感心したら、明日の幼稚園で友だちに教えてやるのだ、と言う。
歳老いた体にはかなりなダメージを受けたが、たぶん、この子にとって、記憶の片すみにでも今日のことが残ってくれたら、この上ない幸せだ、と感じ取ることが出来る。傷の痛みがこれほど心地良かったことは、僕の人生の中では、初めてのことだ。痛みにも歓びがともなうこともあるのだ、と実感した一日だった。今日の観想である。
○推薦図書「夕映えの人」 加賀乙彦著。小学館刊。60歳を迎えようとする初老の男の人生への慈しみが見事に小説世界の中に描かれています。青春小説の大いなるファンですが、今年55歳になんなんとする僕には、真逆の視点からの人生の見直しの時期でもあるだろうと感じています。その意味でのお薦めの書です。よろしければ、どうぞ。