ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

子どもの言葉は重く、僕は突き動かされた

2008-04-06 21:16:22 | Weblog
今日は妻の実家に立ち寄った。妻には姉がいて、4歳の息子と2歳の娘がいる。離婚し、いや、離婚する数年前から、妻の実家に家族ごと転がり込んだのである。父親は何とも頼りにならない男で、車だけが趣味の、無教養な人間だ。幼い頃から実の父親の存在を知らされず、母親は祇園のクラブを経営して一稼ぎした女傑だ。金の有り余る男を旦那にし、何人もの金ヅルを渡り歩いた。京都の高級住宅地に豪邸を構え、足には新型のビートルを乗り回す。いまも何人目なのかは定かでないが、旦那のいる身である。そんな境遇にあっても、自力で己れの人生を切り開いていく人間もいるだろうに、反抗という名の甘えで、いつまでも憎んでいるはずの親からの金銭的援助を当てにしているつまらない男だ。義姉も男を見る目がなかったのだから致し方ないが、二人目の子どもを出産した直後、出奔同然の形で、義姉の実家を飛び出した。家族を何らの責任も果たさず棄てたのだ。中古のアメ車に乗って、満足している馬鹿だ。たった3万円ずつの養育費が払えずに、憎んでいる小金をため込んでいる母親に泣きついた。どういうわけか、その身勝手な母親が唯一頼りにしているのは、この僕である。家内の居ない時間を計ったように電話をしてくる。息子はバカなことはよく分かっているが、あの子の給与から月々6万円の出費はあまりに厳しい。自分ももうこれ以上の負担はできないが、10年ものの保険に入ったので、それが満期になるまで養育費の支払いを10年間先送りにしてくれないか? という申し出だった。さすがに僕も空いた口が塞がらなかった。僕に義姉に話してくれ、という依頼だったが、本人に直接言ってほしい、というのが精一杯だった。不快な気分がしばらく僕を支配した。棄てられた二人の子どもの顔が浮かんだ。義姉にも心の余裕はまるでないから、子育ては、古希をとうに越えた父親と、60代後半の心優しい母親が、実質的な父親、母親代わりである。お年寄りにはまことにきつい晩年である。ご両親の健康を願うばかりである。
親はなくても子は育つ、というが、まさにこの二人は祖父母の努力の甲斐あってよく育ってくれている。下の女の子はまだ幼いだけだが、今年5歳になる長男は、繊細だが口数も多く、僕にとってもかわいいばかりの存在である。その子が公園に遊びに連れていけ、と言う。勿論気の済むまで付き合ってやるつもりだったが、出かける直前に、彼はボソっと言った。「おとうさん、全然会いにきてくれへんなあ」と。実の父親が世話になっていた義姉の実家を出てから、一度たりとも子どもには会いには来ていない。当然子どもたちも、そんな父親のことなど、記憶から飛んでしまっていると僕は思い込んでいたのである。「おとうさん、全然会いにきてくれへんなあ」という素朴な彼の言葉が僕の胸に突き刺さった。その言葉によって、これから出かけるはずの公園での遊びが、真剣なそれに僕の心の中で唐突に変質した。僕の、とうに自立した二人の息子の子育ての経験の後を辿ってみても、 子どもを、これほど真面目に遊んでやることに心を砕いた経験はない。どういうわけか、僕はむきになってこの子に、限られた時間の中で、体を張って何かを伝えたいと思った。大したことは何も出来ないだろうが、公園に行く道すがら、僕の頭はフルに回転していたように思う。
公園には懐かしい遊び道具が整っていた。ご多分にもれず、最初はブランコだ。この子の後ろから押してやる? いや、そんなことではダメだ、と思いなおした。僕は隣のブランコに座って、見ていろよ、と大仰に声を駆け、思い切りブランコをこいで、ジャンプした。何十年ぶりかの試みだった。飛距離は決して満足できるものではなかった。それでも彼は喜んでくれたが、こんな中途半端なことで喜んでもらっては困る、と思いなおした。再度の挑戦だ。今度はさらに大きな弧を描いて、できるだけ遠くへ飛んでやるのだ、と、無闇に力を込めてブランコを力一杯にこいだ。ジャンプした。それは僕の感覚の中では、思いどおりのジャンプだった。これこそ真面目な大人のジャンプだ、と思いつつ大きな弧を描いて空中に飛び出したが、バランスを崩した。自分の歳を考えない横暴なる試みは、勢い余って着地した瞬間に、僕の体は前につんのめった。両の手の平が長らく忘れていた土の感触を直に感じ取った。右足の膝の下あたりにも、同じ感覚を感じ取った。両の手の平は3箇所づつ、大きく皮が剥けていた。血が滲み出した。右足の膝の下あたりでは、じっとりとした血液が滲み出ているような感触がした。両手は血まみれ、右足のパンツからは血が滲み出した。
自分の不甲斐なさを呪ったが、同時に子どもの感性は凄いと思った。彼はギョッとした顔をしたが、僕の失敗した姿を笑うのではなく、その失敗を認めたのである。彼の目はキラキラと輝いていた、と思う。かなり痛ましい傷とその傷から流れ出る血の量の多さなど、何でもないことだ、と心底思った。一瞬でも、「おとうさん、全然会いにきてくれへんなあ」という言葉を凌駕出来ればそれで十分意味がある、と思ったからだ。また、そうでなければ、この子があまりにかわいそうだという感覚から僕は解放されなかった、と思う。彼は、僕の無様だっただろう姿に対して、凄いなあ、と呟いた。もう傷の痛みなどどこかへ吹っ飛んだ。これでよかったのだ、と思った。血を流しながら、別の公園に行ったら、滑り台があった、ええい、同じなら骨折しても、何かこの子に特別な滑り方を教えてやろう、と決意した。当初は、滑り台の上から立ったままに、両手を広げて駆け降りるという構想だったが、やろうとしたら、思いの他、この滑り台はよく滑るので、急遽計画を変更して、両手を広げて、膝を少し曲げて立ったまま滑り降りることにした。3度目に実演した折に、右の足首に鈍い痛みが走ったが、構うものか、と思った。この子は最初、両手で左右の枠をつかみながら滑っていたのでスピードも出なかった。が、僕の無謀な滑りから、両手を広げて座ったまま、これまでのたぶん倍のスピードで滑り降りてきた。おお、凄いじゃあないか! と心底感心したら、明日の幼稚園で友だちに教えてやるのだ、と言う。
歳老いた体にはかなりなダメージを受けたが、たぶん、この子にとって、記憶の片すみにでも今日のことが残ってくれたら、この上ない幸せだ、と感じ取ることが出来る。傷の痛みがこれほど心地良かったことは、僕の人生の中では、初めてのことだ。痛みにも歓びがともなうこともあるのだ、と実感した一日だった。今日の観想である。

○推薦図書「夕映えの人」 加賀乙彦著。小学館刊。60歳を迎えようとする初老の男の人生への慈しみが見事に小説世界の中に描かれています。青春小説の大いなるファンですが、今年55歳になんなんとする僕には、真逆の視点からの人生の見直しの時期でもあるだろうと感じています。その意味でのお薦めの書です。よろしければ、どうぞ。

愛と誠実さと

2008-04-06 05:38:08 | 観想
○愛と誠実さと

人を愛する、とはどういうことなのか? そのことに想いを馳せた。愛にはエネルギーが必要である。そのエネルギーとは、あくまで自分を鍛えつつ育むべき他者への受容力のごときものである。ともすると、愛が依存にすりかわる。これは愛とは言えない。単なるエゴイズムである。依存をともなった愛(に似たもの)とは、愛する他者の持つ尊厳を認めようとしないがゆえに、醜悪である。当然、表面的な現れとしては、自分可愛さが何にも増して優先されるので、どこまでも自己本意な感情の発露でしかない。結果、他者を苦しめる。さらに言うと自己愛とは、自己の可能性を自分自身で完結しているために、あくまで閉じた世界観である。閉じた自己完結的な要素は、回り廻って、自分に跳ね返ってくるのである。苦しみというツケが廻ってくるだけのことだ。自業自得とは、こういう自己完結的な世界観がもたらす当然の結果だろう、と思われる。

愛が、自己の内面を鍛えつつ、愛の対象者に対して己れの愛を表現出来るとするなら、愛という世界観は、自ずと無限大の可能性を孕みつつ膨張する存在なのであり、そうであればこそ、愛する対象者に対する限りない尊敬の念を育むべき観念であろう。そうでなくては、どうしても愛は自己愛にすりかわり、拡がりを喪失してしまう。世の中によく起こる愛の終焉とは、愛を育んだ者どうしの、互いの尊厳を見失った結果起こる悲劇であり、角度を変えて見れば喜劇とも言える。繰り返すが、愛とは愛する対象者への限りない慈しみの感情の発露である。慈しみに、尊敬の念が含まれているのは当然の結果なのであり、日常的な現実の中においては愛する者への優しさとして現れる。その優しさは、どこまでも他者を受容する性質のものであり、したがって他者に対する幸福を約束するものでなければ、内実の伴わない無効の思想となり果てる。愛とエゴイズムとは同居し得ないのである。愛は拡がりをもった世界観であり、エゴイズムとは閉じた世界観であるからだ。両者は相矛盾する故に、互いのいずれかが、愛を間違って解釈したり、間違って実行したりすると、悲喜劇が生まれることになり、感情の壊れが生じるのは必然である。

愛に自己を鍛える必要があるのは、精神的な自己鍛練のない感情からは、愛の対象者への尊敬の念が湧いてはこないからである。自己鍛練を忘却したり、放棄したその瞬間から、かつて愛したはずの他者を縛り、独占欲が支配するだけの存在になり果て、愛とは裏腹の、暴力や殺意を含んだおどろおどろしい行為を意識的・無意識的に投げかけることになる。愛の喪失とは、喪失したことを認めようとしない心情から発せられる言葉であり、行為なのである。こうなれば、愛する対象者を慈しむどころか、彼あるいは彼女に対して、憎悪に満ちた言動を繰り返すのみである。ここにおいて、自己愛が益々膨らみ続けることになる。醜悪の極みである。

愛に美しさが伴うとすれば、自己の内面を鍛え上げ、その内面の強靱さを根拠にして、愛の対象者に、その感情を表現すること。ここにこそ、愛の美しさが生み出される可能性が芽を出すのではないか? 愛が美しいのは、互いが内面の美しさを鍛え得る可能性を秘めた関係性を構築出来た場合だけである。内面の美しさを認めあえないのあれば、それは外面性が支配するだけの安逸な性的関係性に陥るハメになる。これを愛の限界点と称しておく。愛が限界点にぶつかれば、性的関係そのものも、つまらない性のはけ口になり果て、美しさなど消え失せてしまう。当然の結末だろう。

愛はどこまでも美しくなければならない、と僕は思う。もし、言い古された言葉を使わせてもらえるならば、それは愛する対象者への誠実さ、である。誠実さが、己れの内面を鍛え、相手の内面をも鍛え、そこに愛の深化がはじまるのではないだろうか? 外面の美しさなど、いつかは枯れ果てる。しかし、それでもなお、愛が深化し続ける可能性があるとするなら、それは、他者に対する誠実さから発せられる尊敬の念でしかないだろう。そこにこそ、愛が美と同一語になる可能性が秘められている、と僕は信じて疑わない。今日の観想である。

○推薦図書「九つの、物語」 橋本 紡著。集英社刊。繊細で壊れやすい心をもつ人間として、生きることの愛しさと愛することの意味に溢れた青春小説集です。ぜひ、どうぞ。

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