且つてランス・アームストロングがツール・ド・フランスを7連覇した頃は絶対王者と呼ばれていた。しかし、後にドーピングが発覚し王座は汚されてしまうことになる。王座から引きずり降ろされるばかりか、王であった歴史さえ消されてしまったのだ。
ランス引退でエースとなったライプハイマーから自らの力でエースの座を奪い取り、マイヨジョーヌをシャンゼリゼで着ていたのがアルベルト・コンタドールだった。2007年のことである。若干24歳の若さでマイヨジョーヌとマイヨブラン(新人賞)を獲得したコンタドールだが、決して順風満帆ではなかった。
2002年にスペインのU-23個人タイムトライアルで優勝するなどの実績をあげて、2003年にオンセ・エロスキでプロデビューしたものの、2004年5月12日、出場していたアストゥリアス一周の第1ステージで突然意識を失って落車。緊急輸送された病院で脳の海綿状血管奇形が原因と判明し緊急の開頭手術が行われた。一時は生死の境をさまよう重体に陥っていたことがあるのだ。
翌2008年にはジロ・デ・イタリアも征したのだが、コンタドールはドーピングの激しい嵐に飲み込まれて行く。その発端が初めてマイヨジョーヌを獲得した直後のオペラシオン・プエルトである。オペラシオン・プエルトとは2006年にスペイン国家警察が行ったドーピング摘発作戦のコードネームである。この事件は2006年のツール・ド・フランス直前に勃発し、ロードレース界に多大な影響を与えることになる。
リバティ・セグロス(旧オンせ)の監督マノロ・サイスとこの事件の主犯とされるエウフェミアノ・フエンテス医師との関りからコンタドールにもドーピング疑惑が浮上する。しかし、これに対して本人は一貫して潔白を主張し、疑惑を証明するような事実も出てこなかったのだ。しかし、この事件はスポンサーの相次ぐ撤退という事態を招き、マイヨジョーヌを獲得したコンタドールも新たなスポンサーを探さなければならなくなっていた。
2008年にエースだったアレクサンドル・ヴィノクロフをドーピング疑惑で失ったアスタナへ急遽移籍が決まったのだが、ヴィノクロフのドーピングを重く見たツール・ド・フランスの主催者A.S.O. (アモリー・スポルト・アルガニザシオン)がアスタナの大会へ招集しないことを決めたのだ。ジロの主催者(RCSスポルト)も当初は招待を見送る方針をしめしていたが、急遽、アスタナの参戦を認めることになる。そもそもドーピングが陰性である選手の招待を禁止したA.S.Oの判断が異常だったのだ。スポンサーの顔色を覗ったのだろう。
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