王者コンタドールには常に不運の影が寄り添っていた。ツール・ド・フランスを初制覇した年に所属チーム(ディスカバリー・チャンネル)は解散を余儀なくされ、チームの母体共々アスタナへ移籍になるが、前年のヴィノクロフのドーピング問題の煽りを受け、主催者がツール・ド・フランスへの招待を拒否するという異例の事態に見舞われた。急遽出場したジロ・デ・イタリアで圧倒的な強さを見せて優勝するが、ASOがアスタナを招待することはなかったのである。
連覇のかかったツール・ド・フランスへの出場が叶わず、コンタドールはブエルタ・ア・エスパーニャへ出場すると、あっさりとWツール制覇を成し遂げてしまう。翌2009年にはツール・ド・フランスでは2度目のマイヨジョーヌを獲得し、初のUCIワールドランキング王者となるも、オフにランス・アームストロングの復帰が発表され、2010年はチーム内でエースの座を巡るゴタゴタに翻弄されることになる。
2010年のコンタドールは3月のパリ?ニースで3年ぶり2度目の総合優勝を飾り、4月のブエルタ・ア・カスティーリャ・イ・レオンでも総合優勝を手にしているのだから。前哨戦のクリテリウム・デュ・ドーフィネを総合2位で終えて迎えたツール・ド・フランスではライバルのアンディ・シュレックと激しいバトルを繰り広げ、第20ステージの個人TTでアンディを逆転し3度目のツール・ド・フランス総合優勝を成し遂げるのだが、ツール・ド・フランス閉幕から2ヶ月も経過した9月29日にコンタドールの広報担当者が、ツール・ド・フランス開催期間中である2010年7月21日に行われたドーピング検査結果で、クレンブテロールの陽性反応が出たことを明らかにしたのである。
1年半にも及ぶゴタゴタの末、コンタドールはCASの裁定を受け入れ2010年のマイヨジョーヌと2011年のマリアローザを剥奪されることになるのである。このクレンブテロール問題は複雑で、検出された量ははわずか50ピコグラム(0.000 000 000 05グラム)に過ぎず、直接的なドーピング効果は皆無であったが、「アンチドーピング規定に定められた処分の軽減もしくは取消しの条件(どのように禁止物質が体内に入ったかを証明できること)を満たさなかった」としてUCI及びWADAの主張が部分的に認められ、ドーピング違反とする裁定が下されたのである。
確かに禁止薬物が体内から検出されたことは事実であるが、「疑わしきは罰せず」という原則に照らせば不可思議な裁定に思えるのだが、より高度化されたドーピングを取り締まる為には、故意・過失を問わず禁止薬物摂取は有罪とするしかないというのが現状なのかもしれない。
自分のピーク時にこのような問題が立て続けに起これば、並みの人間なら精神的に破綻してもおかしくはない。トップ選手ですら一生にひとつ獲得できるかどうか分らないビッグタイトルを2つも剥奪されたのである。
しかし、2014年シーズンのコンタドールは一味違う感じがしている。過去のシーズンを見ても、コンタドールがツール・ド・フランスを総合優勝している年は、春先のパリ~ニースやバスク一周などのレースで総合優勝をしているのである。対して、昨年のコンタドールはツアー・オブ・オマーン 総合2位、ティレーノ?アドリアティコ総合3位、バスク一周総合5位という結果に終わっているのである。
今年のコンタドールは始動が2月のヴォルタ・アン・アルガルヴェと比較的遅く、ティレノが2戦目で、この後は3月24日~30日のヴォルタ・シクリスタ・ア・カタルーニャ(スペイン)へ出場し、アルデンヌ・クラシックを見送り、カタルーニャ一周からクリテリウム・ドゥ・ドーフィネからツール・ド・フランス本番へというスケジュールになっているという。
昨年はUCIポイントやスポンサーの意向などで出場レースが多過ぎた感があった。一時はスポンサーのティンコフ・バンクと手を切るとの発言もあったビャルヌ・リースだが、表面上はオレグ・ティンコフ氏のチーム買収で一段落しているように見える。これ以上のゴタゴタやトラブルがなくツール・ド・フランスを迎えることが出来れば、今年こそはフルーム対コンタドールのガチンコ対決が見られるに違いない。