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好日35 空中遊泳

2011年01月03日 15時59分10秒 | 好日21~45

宇宙空間では無重力の状態になるため人間は誰でも空中遊泳が可能である。最近では地上でも人工的に無重力に近い状態を作り出すことができるようになり、宇宙飛行士はその無重力空間の中で宇宙飛行する日に備えて、日々訓練を行っているのはよく知られた事実である。

 ところで、私は子供の頃、空を飛ぶことができた。空を飛ぶ夢を見たとは言わない。空を飛ぶことができたというのが、正しい言い方である。なぜなら、夢の中では夢と気付いていないということもあるが、それ以前に、幼年時代は夢と現実の境が曖昧なまま生きている時代であるからだ。

 そんなわけで、私は毎日空を飛んでいた。大人で空を飛べるという人はいなかったし、友達も空を飛んでいる様子はなかった。口にするとまずいことになりそうなので、飛べることは親にも黙っていた。昼間はうまく飛べなかったことにはやや不審ではあったが、毎日空を飛んでいるのは絶対に疑う理由のない確実な自分の経験であったから、空を飛べることを自分で信じない理由はなかった。 毎日私は空を飛んで遊んだのだ。

 ベルグソンに、夢を主題にして行った講演がある。その中で、なぜ人は夢の中で飛ぶことができるかを解明している節があって、私は自分が空を飛べた理由を見つけてとてもうれしかったのである。さて、ベルクソンはこんなふうに述べている。

「一般的に言えば、その夢(注:空を飛ぶ夢)を一度見ると、繰り返して見る傾向があり、そのたびごとに、こう考えます。『わたしはたびたび自分が地上を旋回する夢を見たが、今度はたしかにわたしは目ざめている。いまや私は重力の法則を越えることができるものだということがわかった。ほかの人たちにも見せよう』と。そして突然目がさめると、次のようなことがわかるだろうと思います。自分の足に支点がなくなっていたことを感じていたのは、実際に横になっていたからです。そして眠っていないと思っていたから、横たわっているという意識がなかったのです。だから自分が立っているのに、地に触れていないと思っていました。これが夢の中の確信です」
(ベルグソン全集5「夢」渡辺秀訳)

 私が幼年時代に空を飛ぶことができる確信していたことは間違っていなかったのだ。私は重力の法則を脱することができたと確信していた。立っている状態では、頭から足の方向へ重力のベクトルが向かう。しかし眠っている体勢では重力は背中の方向に向かい、頭と足の方向ならびに腹の方向は、背中よりも重力の重みは少なくなっている。幼き日の私はそのことを敏感に察知していた。

 海中では水による浮力があって、その浮力を利用して、水中での遊泳が可能である。だからちょうど海の中に浮かぶように、空中にも浮かぶことが可能だと、眠っている幼い私はそんなふうに考えたのだ。これは科学的な推論ではないだろうか。

 人類はその幼年時代より、夢の中でと同じように、いつか無重力状態の中で空中遊泳をすることができると確信していた。この確信は確かな根拠があった。背中と腹の僅かな重力の差異を利用して、夢の中の確信であるにせよ、重力の拘束を脱して人類は実際に空を飛ぶ経験を数限りなく積み重ねて来ていたのである。

【反撃の宇宙】 革命の朝、人は空を翔ぶこともできるぞ。北一輝


好日34 私の古典

2010年08月18日 22時59分08秒 | 好日21~45

 かって私は言語の総体を論理の言葉と詩の言葉という対立軸で考えたことがある。その場合に、私にとって、論理の言葉を代表するのがマルクスであり、詩の言葉を代表するのがロートレアモンとランボーであった。この両極を自在に行き来する能力を獲得したいというのが、私の潜在的な欲望であり、目標である。

 大学の合格発表の日から上京までの約四十日間、私は向坂逸郎訳の『資本論』だけを読む生活を続けた。十八歳から十九歳にかけての頃の話である。上京するまでには、『資本論』全三巻を読了したかったのだけれども、二巻の途中までしか読むことができなかった。その後、大学生になってから、そして卒業してからも、『資本論』を含めて、マルクスの主要著作は読み続けた。しかし、マルクスの著作の中で十回以上読み返したのはただ一冊だけである。それは『賃金・価格・利潤』である。『賃金・価格・利潤』は小著ではあるが、資本論全三巻の内容を要約したたぐいまれな名著であると私は考えている。英語による講演であるため原文で読めるメリットもあり、マルクスの肉声が聴こえてくる気がする。それほど読み込んだ私にとっての古典、それが『賃金・価格・利潤』という書物だ。

 十回以上読んだ本は自分にとっての古典といっていいのではないか。本棚の中に、自分にとっての古典を、十冊以上持っている人は、真の読書家といってよいだろう。本は何冊読んだかはそれほど重要なことではない。自分の古典を持っているかどうか、それも自分の古典を十冊持っているかどうかが一番大事なことだ。根拠はないが、それが私の確信である。そう思って、自分の古典が十冊あるだろうかと算えてみるに、十冊には足りなかった。まだ私は真の読書家ではないということなのだろう。

 現時点での私の古典は何か。まず、マルクスの『賃金・価格・利潤』、ロートレアモンの『マルドロールの歌』、ランボーの『地獄の一季節』と『イリュミナシオン』、シェイクスピアの『マクベス』、新約聖書の中の『マタイによる福音書』、橋川文三の『日本浪曼派批判序説』、高校の教科書で『世界史B』の八冊くらいに過ぎない。

 書物は全体の直観があってはじめて部分も正確に理解できる。だから感動した本は読み返す必要がある。全体を直観すること、細部を正確に読み取ること、この二度の読書体験があって、三度目に初めて書物はその真価を掴み取ることができるのではないか。そして、三回読んでなおそれ以上読み返したいという気持ちが起こる書物。それは自分にとっての古典になる可能性がある。だからまずは古典になる可能性がある本をふやしたいものだ。直近で三回読んだ本は、岩井克人の『貨幣論』と佐藤優の『自壊の帝国』である。どちらも、偶然であるが、内容が『資本論』に繋がる本だった。

  五、六回以上読んだ本なら、けっこうある。漱石なら『三四郎』、ドストエフスキーなら『罪と罰』と『カラマーゾフの兄弟』、プラトンなら『饗宴』に『パイドロス』。デカルトの『方法序説』。しかし、漱石もプラトンもドストエフスキーもデカルトも、十回以上読んだ本はまだない。漱石もプラトンもドストエフスキーもデカルトも、まだ私の古典にはなっていないということなのだろう。

 私の古典が十冊になった時、私は自分に対し真の読書家であると認定することにする。その日は同時に私の好日である。

★『スチェパンチコヴォ村とその住人』はドストエフスキーの喜劇的精神を最高度に発揮した傑作


好日33 札幌からの遠望

2010年05月24日 00時23分23秒 | 好日21~45

 大学を卒業してから五年間勤めた会社を辞め、物書きとして出発すべく、最初の作品を私は書き上げようとしていた。何を書くべきか。その時私の頭の中にあったのは新しいマニュフェストのアイデアであった。マリネッティの未来派宣言、ツァラのダダ宣言、ブルトンのシュールレアリスム宣言に続く、そしてそれらすべてを超える新しいマニュフェストを起草したいと願った。タイトルはとりあえず『形而上派宣言』と定めた。タイトルだけは決まったが内容が予め見えていたわけではない。後戻りはせず書き直しも一切しない自動記述という方法論でもって書き続け、世紀の傑作をものにしようと私は企んだのだった。

 ついにその日は来た。それはいつもとちがう朝だった。前夜早く就寝した私は、熟睡して眼を覚ました。身内に力が漲ってくるのを覚えつつ。心を完全に解き放つ決意を私は固めたのだった。一歩を踏み出さねばならない。何処へ? 書き溜めたノートを眺めつつ私は私の第一歩をランボー体験を語ることから始めた。

 ランボーは、政治の季節の只中に於いて、政治の季節の終焉を告げる予兆の言葉として私の元にやってきた。大洪水の後に咲く釣鐘草のごとき存在として。それはマルクスの『資本論』やレーニンの『国家と革命』などとはまったく異質の言葉であり、私の意識を精神のより深い次元から根本的変革を促すものであったのだ。彼はいったい何者なのか。私をこんなにも心動かすこの言葉たちは何なのだ。これらの問いが私が最初の作品を書き始める際の根本モチーフとなった。かくして私の最初の作品『形而上派宣言』の第一章「伝説の午後・いつか見たランボー」が、原稿用紙二十枚程度のエッセイとしてまとまった。その後も一ヶ月ほど夢中になって書き続け、全十章から成る百二十六枚の『形而上派宣言』を私は完成させた。しかし読み直してみて第二章以下は発表するに足りぬ未熟な内容と悟ったので、これを破棄し、第一章のランボー論のみが夢の残骸として今もその姿態を曝している。

 私は埴谷雄高に一度だけ会ったことがある。埴谷雄高の『死霊』は日本で唯一の形而上文学という評価を受けている。『形而上派宣言』という表題には、埴谷の『死霊』に対抗して、新たな形而上文学を打ち樹てようとする志が込められていた。その試みは無残な失敗に終わったけれども、何物にも回収しえぬ文学への意志は、一切を賭して踏み出そうとした企図の中に、今なお生き続けているのだと考えざるをえない。

 二年前の夏、札幌への長期出張への折に、北海道大学の中のエルムの森にこもって私は「ドストエフスキーの好日」というエッセイを書いた。札幌からはペテルスブルクのドストエフスキーが身近に感じられた。その時思ったのもやはり文学への意志ということであった。ペトラシェフスキー事件がドストエフスキーに与えた教訓は、彼が収容所体験によって民衆を発見したというような、その後の経緯にあるのではない。ドストエフスキーの若き日に抱かれた夢幻のごとき世界改造の志が、終生続いた文学の意志に転位したことこそ、ドストエフスキーの魂の根本構造を形作ったのである。

 二年経った。不思議な巡り合わせで今私は札幌にいる。二ヶ月半の長期出張を終え明日は東京に帰る。札幌からの遠望を記す。 ー2010/5/16ー

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好日32 ルソーの声

2010年02月18日 16時08分43秒 | 好日21~45

 学生時代に橋川文三の外書購読の講義でエルンスト・カッシラーの『ジャン=ジャック・ルソー問題』を学んだのがきっかけとなり、以来折りに触れルソーを読んできたが、ルソーの思想の核心が何であるかは、同じ橋川文三の次の洞察に尽きると今の私は考えている。

「J・J・ルソーについては、いわゆる「ルソー問題」とよばれるものがあるが、この問題はヨーロッパにおいて消えることのない謎といってよい。つまり、ルソーは崇拝者と嫌悪者とにわかれている。その一例として「ヒュームとルッソー」の場合をあげることでよい。この二人ははじめ尊敬しあいながら、一年と少しで悪魔よばわりするようになった。わが国では山崎正一、串田孫一の本が『ルソーとヒュームーー悪魔と裏切者』として出版されているのはその証拠である。四年前、フランスにおいてルソーとヴォルテールの死後二百年祭が行われたが、それはヴォルテール賛美の気配が濃かったという。これは一言でいうとルソーの自然賛美とヴォルテールの人工賛美との対抗であろうが、また西郷の「敬天愛人」と当時一般的であった「文明開化」との対比でもある」(橋川文三『西郷隆盛紀行』「あとがきに代えて」より)     

 ここで橋川文三は、ルソーの史的評価の難しさと西郷の史的評価の難しさを、パラレルなものと考える視点を提示している。これは、青年時代以来「実在」を追い求めてきた果てに晩期橋川文三が到達した究極の洞察である。
         
         

 山崎正一と串田孫一の『悪魔と裏切者』は、ルソーのヒューム宛一七六六年七月十日の手紙を中心に、ルソーとヒュームの大喧嘩の経緯と背景を周到に再現する書物であり、ここで読者はルソーという人物の人格の複雑さ・不可解さ・理不尽さをまのあたりに見せつけられて途方にくれるのだが、それはまた遠い時代の大思想家を自分の身近に引き寄せることができる稀有の経験でもあるのだ。『悪魔と裏切者』は、ひとことで言って、ルソーを現代日本に甦らせる力を備えた衝撃的な名著である。

 ルソーは、オペラ『村の占い師』の王宮での上演によって、パリの社交界で一躍名声を得た。貴婦人達は「素晴らしいこと。うっとりしますわ。どの声も心に語りかけてくるんですもの」とささやき合い、国王自身にしてからが、この作品に熱狂し、王国一のはずれた声で、「私はしもべを失った。幸せをすべて失った」と、一日中歌い続けたのであった。このエピソードは『告白』第八巻に紹介されている。

 急転直下、『エミール』と『社会契約論』の発刊によって、ルソーは、全ヨーロッパのエスタブリッシュメントから石持て追われる逃亡者の身に落ち入ってしまった。

「こうして私は、いまや自分自身のほかに兄弟も、近しい者も、友も、つき合う相手もなく、この地上にひとりきりになった」(ルソー全集・第二巻『孤独な散歩者の夢想』冒頭)

 けれども全世界から隔絶された存在となったルソーの声は、すべての孤立する知識人と民衆の耳元にまで熱く届いた。ルソーの声は、その声に耳を傾けるすべての人の理性と感情を根本から揺り動かす。ルソーの声は、まず西欧のアンシャン・レジームを薙ぎ倒した。そしてルソーの声は、世紀を越えて、二十一世紀の日本にまで鳴り響こうとしている。 遂に、ルソーの声は、その時と処を得たのである。

★ルソー作曲のオペラ「村の占い師」序曲★


好日31 日本浪曼派とは何か

2009年11月14日 16時31分26秒 | 好日21~45

 二十歳の秋に橋川文三の『日本浪曼派批判序説』を読んだ。翌春に橋川文三ゼミに入室した私は、ゼミで取り上げる最初のテキストにこの書物を所望した。

「最初のテキストは何であるべきか。橋川文三の他の本は自分で読めば全部わかる。しかし『批判序説』だけは自分だけで読んでも分からない謎の部分が残る。この不可思議をそのままにしておいて橋川文三ゼミは始められない。『批判序説』に関する認識を共有することから我々はスタートしなければならない」。

 私は当時このような演説をぶった。いまから考えると気恥ずかしい発言ではある。しかしこれが二十歳の驕りと真摯さというものであろう。反省すべき点は何もない。このような経緯で翌週に先生自身に『批判序説』について語ってもらえることになった。

 話の内容は、終戦直後から、編集者生活を経て、『批判序説』を同人誌に掲載するまでの生活史が主であった。橋川さんは編集者生活の中から丸山真男に出会う。丸山真男からカール・シュミットの『政治的ロマン主義』の原書を借り、ドイツ語の辞書を友人から借りて訳しながら、「これで日本浪曼派について何か書けると思った」と橋川さんは述べられた。

 当時橋川さんは、結核を病んで、病院で療養中であり、職もなく、生活は窮迫を極めていた。「本は生活費のために売ったので、自分の本は一冊も持っていなかった」との発言には驚愕した。これほどの学者が三十代半ばを過ぎて自分の本が一冊もない生活を想像するのは難しかった。しかし、そのような環境の中で書かれた書物であるということを知って、『批判序説』の謎の一端が垣間見えたのは確かである。

 まこと興味深い話であるが、一回切りの約束の『批判序説』講義のゼミの終了時間は刻々と迫ってきている。本文には入らないのだろうか。それはそれでもいいと思った瞬間、先生はゼミ生に用意してきた『批判序説』の「あとがき」を開くよう指示された。そして以下の部分を読んで下さった。

「そのようなものとしての日本ロマン派は、私たちにまず何を表象させるのか? 私の体験に限っていえば、それは、 
 命の、全けむ人は、畳菰、平群の山の
 隠白檮が葉を、鬘華に挿せ、その子

というパセティックな感情の追憶にほかならない。それは、私たちが、ひたすらに「死」を思った時代の感情として、そのまま日本ロマン派のイメージを要約している。私の個人的な追懐でいえば、昭和十八年秋「学徒出陣」の臨時徴兵検査のために中国の郷里に帰る途中、奈良から法隆寺へ、それから平群の田舎道を生駒へと抜けたとき、私はただ、平群という名のひびきと、その地の「くまがし」のおもかげに心をひかれたのであった。ともあれ、そのような情緒的感動の発源地が、当時、私たちの多くにとって、日本ロマン派の名で呼ばれたのである」(橋川文三『日本浪曼派批判序説』)

 橋川さんは、日本武尊の歌を板書され、若干の語句の注釈を施された。歌の解釈はされなかった。しかし我々はその時、電撃のように一瞬の内にことごとくを理解したのだった。日本武尊とはだれなのか、日本浪曼派とは何か、そして『批判序説』とはどのような書物であるのかを。すべてを見通す詩人にして学者である人がその日その時そこにいた。それが橋川文三であった。

★ヤマトタケルノミコトか? それともニジンスキーか? ★