ドイツのメルケルおばさんは、新年のご挨拶で、私たちは団結すればテロリストより強いのだ、と気張ってるようだ。さらに、その私たちというのはどういう私たちかというと、団結して、開かれていて、議会制民主主義があって、みたいなのがこのおばさんがいうところの私たちらしい。
In 2017 Address, Merkel Decries "Distorted Picture" Of Refugee Policy "Painted By Populists"
http://www.zerohedge.com/news/2016-12-31/merkel-decries-distorted-picture-refugee-policy-claims-our-state-stronger-together
しかし、傍からみれば、団結できず、自分たちで問題を解決できず、オープンでもなく、議会制民主主義など機能不全の置物ぐらいに考えているのがドイツのエスタブリッシュメントと言うべきではなかろうか、など思う。私は前から言っている通り、ドイツは大連立を組んだ時からエスタブリッシュメントが国民を操作しようとしていると思っているし、でもって、このやり方が実にドイツ的だなとさえ思ってしまったりもする。
いろいろ考えるに、現在の不安定をもたらしている最大の原因はNATOの拡張志向、というより自分たちを国連軍みたいに考えるその考え方だろうと思ってみたりもするのだが、こうまでNATOを堕落させた責任の一端はドイツにあると私はかなり真面目に思う。
が、ドイツ人の大半はおそらく何を言われているのかわからないとさえ思う。なぜなら、まったくトンチンカンな政治言論が行われ、最終的に行きつくのは、相も変わらず「悪いのはロシア」とか、場合によっては「悪いのはアメリカ」というプロパガンダ大作戦だから。
■ 「西側の勝利」
NATO東方拡大については、最近のウクライナ問題の際に、アメリカ側から結構な非難がよせられた。あんなことをしてロシアの国境までびっちりNATO諸国を配置するような真似をしたことがロシアとの対立を招いたのだ、そんなことはそもそも不要だったんだ、ということ。
その上でこれらの行動を取ったアメリカ側の首班としてのクリントン政権の90年代の判断がやり玉にあげられていた。冷戦終結時のアメリカのソ連大使だったマトロック氏などは、米国は、冷戦終結以来ロシアを敗者のように扱ってきた、これがそもそもの誤りであるという本まで書いてる。米ソが合意して終わったんだ、という流れなのに、戦って米が勝った、ソが負けたかのように扱って、ロシアを敗者として惨めな境遇に置くことを正当化したのが間違いだ、って意味。
ウクライナ動乱:NATO東方拡大問題(1)
さてしかし、この、冷戦は「西側の勝利」という結論は、アメリカの専売ではない。私が思うに、ドイツと日本はアメリカ以上にこの「勝利」に拘ったと思う。
ドイツも日本も、第二次世界大戦では敗者だが、冷戦では勝者だ、となってそこから西側なるものにくっついていることが正当化され、永遠に追及されるべき素晴らしいテーマみたいにさえなって現在がある。
で、日本の場合はちょっとおいておくとして、ドイツの場合にはこの問題は、東ドイツとの「統一」という問題を含むので、実はさらに微妙な問題だったと今更ながらそう思う。
何が微妙かというと、西ドイツにとって「西側の勝利」とは、ソ連に対するものであるのと同様に、いやそれ以上に東ドイツを敗者として扱うための理由づけとして使われた、ってこと。西側の勝利を高く掲げる必要があったのは世界中のどこよりも西ドイツなんだろうな、と今更だが振り返ってみてそう思う。
私たちは一般に、東西ドイツの再統一とか再統合といった語で、おめでたい話としてそれを習ったわけだけど、だんだんと明らかになってきたことによれば、なんというか、あれは西ドイツによる東ドイツの併合、アンシュルスのようなものだったな、という感じさえする成り行きだったらしい。少なくともそう語っている人はいたし、今もいる(このへん)。
で、「併合」が可能だったのは、冷戦終結というお祝いムードを醸成しつつも、結局西側が勝ったんだから、東ドイツはどうしようもなかった、という論というかムードが優勢だったから。しかし、誰でも知っているように東ドイツは東側の優等生でもあったわけで、何もない、何もできない、すべてがダメという場所の訳はないのだが、西ドイツはそのように取り扱ったらしいし、政治状況を作っていく過程もずいぶんと作為に満ちていたように見える(何がなんだかわからない東ドイツ市民に、これかあれかを選ばせて、後で、あんたたちが選んだんだという、みたいな成り行き)。
■ 東ドイツとは何だったのか
では西ドイツはどうして同胞たる東ドイツに対してそのような、余裕のない態度に出たのか。
それは、多分、西ドイツは東ドイツという存在そのものを直視したくなかったからじゃなかろうか。では東ドイツとは何かというと、共産主義者の団体だとも言えるが、しかし時系列でみれば反ナチだった人たちの集合体とも言える。1945年においてはここが問題。
一般に、東ドイツとはソ連が取っちゃったから仕方なくそうなった国、ぐらいに思われていると思うんだけど、これは相当問題のあるところ。
wikiの日本語版 東ドイツの項には、
第二次世界大戦での敗戦とそれに伴うドイツ国の滅亡により、ドイツは米・英・仏・ソの四か国による占領下に置かれた。しかし、戦後の冷戦構造が固定化されていく中で、この四か国の協調は困難になっていった。1948年より、米・英・仏の占領地域による通貨改革を皮切りに、経済・政治両面における分断国家形成の動きが見られ、ソ連側もベルリン封鎖で対抗するが、東西ドイツ分断は決定的となった。1949年9月のドイツ連邦共和国(西ドイツ)建国を受け、翌10月にドイツ民主共和国(東ドイツ)の建国が宣言された。
とある。太字は私。
あたかも、米・英・仏 vs ソ連 という対立が起きたので、仕方なく東西ドイツが割れた、という感じ。
しかし、そうなんだろうか?
英語版の同項目を読んで言ったら、こんな一文があった。
「歴史家たちは、別の国を成立させるという決定を先導したのはUSSRなのかSEDだったのか討議している」
Historians debate whether the decision to form a separate country was initiated by the USSR or by the SED.[21]
東西が別々になったのはソ連のせいなのか、東ドイツの支配党だったのか、ということですね。
そうなんですよ。そこなんですよと我が意を得た思いだったりもするわけだけど、実際問題、SED、つまり後に東ドイツの支配政党となるドイツ社会主義統一党と、西ドイツのアデナウアー政権に妥協の余地などあったのだろうか、できたようには思えないのだが、なわけです。
まして、1945年からいくばくかの時間においてや、と。
■ ナチ vs ドイツ共産党
まどろっこしくなるので、時系列に書こうと思うけど、まずとっかかりとしては第一次世界大戦直前あたりのドイツというのはやたらめったら共産主義者を擁していた、ここがとても重要だと思う。
冷戦後の世界では、共産主義、社会主義というとロシアが本場でロシアで醸成されたかのような錯覚に満ち満ちているけど、そうじゃないでしょう。最終的にお金を投げ込んでイベントを作ったりした人にはいわゆる資本家の人たちが含まれ、それが故にアメリカ、イギリス、あるいはユダヤ人がこの運動を作ったのだという側面にハイライトがあたり続けているけど、考えを作っていって、それを醸成させ広め、実際結構な勢力となり、さらにもう一つ、幾多の対立の結果としての憎悪まで含めていったのはドイツ人でありドイツ周辺の人々でしょう。それは個人的な問題となっているが故に、長続きする。
有名なローザ・ルクセンブルクはロシア帝国領内のポーランド人というかユダヤ人というかというアイデンティティの難しい人でドイツで活躍する。レーニンもドイツで匿われてていてロシアに投げ込まれた爆弾となった、と。
で、投げ込んだはいいけど、自分のところでも大爆発を起こして、第一次世界大戦の最終盤に、1918年ドイツ革命が起こって国中大騒ぎとなり、ドイツ帝国はウィルヘルム2世が退位して共和国へと変貌した。(いわゆる敗戦革命とも言えるだろうが、成り行きを見てると無茶な戦争指導に対して労働者一般大衆が怒るべくして怒りましたとも言える。)
しかしこの共和国、すなわちワイマール共和国というのがそもそも波乱含みだった。革命を積極的に支援した側はその結果として、社会主義共和国の樹立にしたかったが、そこまでさせたらいかんという側は、帝政のままではこの騒動はおさまらんから共和国で、みたいな、多分本人たちのつもりでは次善策ぐらいの感じで対応し、いろいろあるけど社会の構成は実はそのままで行こうというのが見え見えだったりもする、なにか著しく妥協的な存在がこの共和国。
ということは、革命だ!とか言ってる側はそれで収まるわけもなく、そこから1919年初頭スパルタクス団の蜂起なるものが起こる。
で、スパルタクスは蜂起に失敗して、ローザ・ルクセンブルク、カール・リープクネヒトといった著名な指導者を失う。
しかし、一方のワイマール共和国の方も、あの有名なインフレなんかがあって何もうまく行ってない。
そうであれば、革命だ!の派の人たちが引き下がる理由もなく、1919年にはドイツ共産党ができる。ローザ・ルクセンブルク、カール・リープクネヒトらはドイツ社会民主党(SPD)内過激左派で、そこがスパルタクスになって滅びたはずが滅びないで、むしろ党になっていった。しかも、10年後の1929年には大恐慌勃発の起因となった株価大暴落が来るというジェットコースター的な経済状況だったのでさらに左派が退潮する理由がなくなっていた。
で、この人たちは共産主義の人でもあるけど、同時にワイマール共和国という妥協の産物を呪ってるし、そこが結んでるヴェルサイユ体制反対派でもあるわけで、その点ではナチスと同じ立ち位置。いろいろ異論はあるんだと思うけど、左から来たのが共産党で右から来たのがナチスだった、みたいに言っていいんだと思う。だから、ナチスに資本家さんやらお金持ち勢が資金を投入していったことにはある程度合理性があるとも言える。共産主義者に政体をひっくり返されるぐらいならなんだってする、と思ったでしょう、そりゃ。
そしてナチスが政権を取り、有名な国会議事堂放火事件が来て、共産主義者を排除する運びとなった。そこで、この排除されていった人たちはどうなったかといえば、国内に潜伏し、回心、転向した人もいただろうけど、欧米各国に亡命していった人も多数いて、その中で最も重要なのはソ連に亡命していった人々。
で、この人たちは折からのスターリン粛清で死んだ人もいたが、しかしそれらをすべて潜り抜けて、スターリンに膝を屈してバカと言われようとも堪えて生き延びた人たちもいた。
この人たちがソ連が巻き返して、最終的にベルリンを落とす流れに乗じてドイツに戻っていく。代表的な人が、初代東ドイツ大統領のヴィルヘルム・ピークか。
ピークとすれば、ほうら見ろナチは悪い奴やったやないか、俺は言うたがな、あんたらあんなんについて行ったら殺されるて言うたがな、1000万近くのドイツ人が死んだんやで(ソ連側は民間人含めてその倍以上死んでる)、となるし、ナチの大敗北に打ちひしがれる中にあってこれに呼応する人々が、特にベリルン市民に多数いたとしても不思議はない。好むと好まざるとにかかわらず、あるいは1930年代にナチを支援していたかいなかったにかかわらず。
しかしもちろん、地理的に東側にいたってナチも嫌だが共産主義者も嫌だという人はいるわけで、その人たちが東の支配に対して1953年にまた蜂起みたいなことをする。
敗戦後4分割されてコントロールされたドイツ
よーく考えるとソ連は攻めていって攻め返された当の相手だから否応なしにこうなるだろうし、アメリカはこの大イベントで確立した覇者だから理解できるとして、英仏なんかになんの権利があるんだろうって感じなんだけど、ぶっちゃけここは資本家代表って感じなんでしょうね。(ドイツの占領は、別の言い方をすれば、ソ連にこれ以上大きな顔をさせないために英米がドイツを占領して差し上げた、とも言える。フランスは後で加わった)
日本の共産党の1945年も筋としてはよく似てると思う。しかし、決定的に違うのは、なんといってもドイツの場合は1918年ドイツ革命が大規模な混乱と共にホントにあったという点と、その前後30年か40年ぐらいにわたる社会民主主義者、共産主義者の活動と量のボリューム感。だから、ソ連がナチスを蹴散らした途端「彼らが勝利者として戻ってくる」、このスケール感が全然違うと思う。でも、基本は似てるので、日本については機会をあらためて考えたいと思う。
■ キリスト教民主同盟
さて、一方の西ドイツの方は、アメリカ、イギリスがかねてから目をつけていたと思しきアデナウアーなどを中心にキリスト教民主同盟(CDU)が出来て、そこが西ドイツの政治の中心になっていく。
中央党というカトリックの党が以前からあったから同盟していく恰好だったってこともあるんだろうけど、イデオロギー的にナチスと共産党にかき混ぜられた後に何が残るかといったら、もうキリスト教しかなかったと考えても間違ってはいないんだろうと思う。
で、このアデナウアーをはじめとする多くのナチでも共産主義者でもない人たちが後の西ドイツを作っていくのは考えてみれば当然だった。
しかし、具体的に、1945年から1952、3年にかけて、彼らが反ナチでありかつナチによって亡命を余儀なくされていてた人たち、すなわちソ連占領地にいたピークたち共産主義者たちとどう和解、調整ができるんだろう・・・。互いに妥協をとかいう余地があるようには思えない。
資産のある人にとっては、よしんば永続的でないにせよソ連型の経済に資産を接収されることを阻止したいし、また、つい12年ぐらい前に彼らを追放したという点で恨まれていることに自覚的な人たちもいたでしょう。逆に、今日の勝利者として帰ってきたドイツ共産党の流れの人たちとしたら、イデオロギー部分以外でも、ナチを使ってドイツを冒険に陥れて儲けた奴らは旧に倍して敵だ、となる。
まして、西側のドイツでは、まぁそのきれいごとを言ってますが、ゲーレンという情報屋さんがナチス敗戦と共に米軍に投降して生き延びるという事態を代表例に、ナチスをきれいさっぱり止めるというか整理するといった作業がどこまで行われたのかは疑わしかったのが当時のドイツ。ゲーレンの捕獲には、CIAの前進であるOSSや、ドノバン、ダレスなども拘わっているとされている。また、その後ゲーレンはゲーレン機関と通称されるユニットを持たせてもらって、その中には親衛隊だろうがゲシュタポだろうが要するにナチ時代の、そのまま行けば戦犯かもよといった人々が含まれていたと言われている。ヒトラーとその周辺は敗北してきれいさっぱりいなくなったけどそれ以外は、なんのかんのと温存されていった傾向が強かった。
結局、スターリン率いるソ連は、ドイツを統一して、全体を中立化、非軍事化して(スターリン・ノート)という注文を出すが、それを、アデナウアー政権が拒否して、ドイツは英米仏の側で再軍備することを選択して、それが結果的に東西のさよならのきかっけになる。
■ 誰かのせいにして済ませるドイツ
で、冷戦期というのは、主に西側と東側のブロックで互いに互いを罵っていた時期なので互いに都合のいいことを言っていたと一応言える。で、西側ではこの間に、いつの間にか、そういう対立があるからドイツは東西に分かれている、という、考えてみれば倒錯した考えが主流になった。
しかし、時系列で考えると、ドイツの場合は、第一次世界大戦の終わりまでに自国内で勃興した共産主義者または社会民主主義者のソ連派みたいな人たちとそれを嫌がる人たちが妥協できない、調和できない、というのがそもそもずっと問題だと思うわけです。しかも、第一次世界大戦で崩れたドイツ帝国の参謀本部はレーニンをロシアに送ってそっちでは革命を扇動してるわけだから、自分で騒ぎを大きくしていった人たちだとも言える。
そして、ナチスを共産主義者にドイツを取られないためのひとつの方便として作ってみたはいいけど、あまりにもぶっちゃけすぎていて自分でコントロールできなくなる。結果、周辺に大迷惑をかけて、最後にはソ連を相手に壮大な自爆をした、って感じでしょうかね。
しかし、ここでも、来し方を振り返ることなく、今度は、西ドイツは、まったく共産主義者は困ったものだと言って東ドイツを敵視していく。逆に東ドイツは、あくまで我々はナチスの片棒を担いだ奴らはとは違うのだという存在意義を確立していく。
西ドイツは、冷戦中、途中で「東方外交」と呼ばれる一連のソ連との融和政策を掲げ、それが最終的にはソ連との融和、東西ドイツ統一に繋がったというのが定説だろうと思うんだけど、これは考えようによっては、東ドイツの親方たるソ連と融和することによって、東ドイツを潰そうとしていたとも言えると思う。
そして、最終的に、米ソが冷戦を止めるとなった時に、東ドイツを、「西側は勝利したのだ」というムードと共に、単なる遅れたバカもの、邪悪な奴らとして「併合」した。西ドイツの中のいくばくかの人々は、ついに勝ったと思ったんだと思うんだな、心底。
しかし、じゃあそこでソ連またはロシアと融和的になっていくのかというと、今度はNATOを東方に拡大して、今現在はあたかもナチスのソ連侵攻前夜みたいなフォーメーションのまま固定されている(規模はまったく違うけど)。
ドイツ、いい加減おかしい、と私は真剣に思う。
さらにいえば、過去20年間ぐらい、ドイツは今もUSに占領されているんだから仕方がない、みたいな言論がドイツでは支配的というかよく聞かれるみたいだけど、いやあんた、再軍備してNATO(英米仏)との軍事同盟に非常に前向きだったのは西ドイツだと思うわけだが、と誰か言ってやれよと思ったりする。
そういうと西ドイツファンは怒るかもしれないけど、でも、だって、今に至るまで結局自分の子どもたち向けに東西ドイツになったのはソ連のせい、ぐらいに思わせてるのは西ドイツであり、それが現在のドイツなんだから、なんだかなぁと思う人が出てくるのは時間の問題じゃないかという気がする。
少なくとも、ロシアのせいというのは様々な局面でかなり間違ってる。むしろ、ドイツが勝手に自爆に次ぐ自爆をするから回りが迷惑したという方がずっと適切であるように思う。
この間拾ったアメリカのサイトにあった図。またドイツかよ、って感じが伝わる。まぁそうなんですよ。Destroy Europe(ヨーロッパを破壊せよ)と書いてある。
■ 「レフト」はしかし死んでない
が、この話はまだ続いている。ドイツには、一般に極左政党と括られる「Die Linke」という、その名もずばり「左」という党がある。2007年に新自由主義的なシュレーダー政権に対抗して合同してできあがったという意味では新しい。
しかし、これは、上で延々書いたローザ・ルクセンブルグ→スパルタクス→ドイツ共産党→ドイツ社会主義統一党(東ドイツの支配党)→ドイツ民主社会党(東西統一以降2007年まで)に続く党、と考えることができる。自己規定がどうなのかちょっとわかりませんが、主要なシンクタンクの名前が「ローザ・ルクセンブルク財団」だったりするわけで、やっぱりそうなんだろうと思う。
ディーリンケは、ドイツの国会内の議員数は1割程度だけど、でも旧東ドイツ圏内では万弁なく少数とはいえ議員がいて、一部の州では与党に入っているところもある。
さらに、メルケル打倒を目指して、SPDとリンケ、グリーンが連立する可能性を模索するという話も出てきている。メルケル政権はCDUとSPDの大連立政権なので、実際には議会制民主主義を壊しているとしかいいようがない仕様になっていて、この間、ウクライナ、シリア、移民と続いた大問題においてディーリンケが小党だが唯一のホントの野党みたいな感じになっていたため認知度が高まった可能性は結構ある。
German left-leaning parties meet to explore coalition option
http://www.reuters.com/article/us-germany-politics-idUSKBN14011F
多分またぞろ、なんとかして凌いで行こうというのがCDUなんだとは思う。CDUとしたら、メルケルのメッキが剥げたらこのばーさんを放逐してCDUを守ろうって話になるんじゃなかろうかとも思う。
いずれにしても、CDUは1945年の敗戦と共にナチスでもソ連モデルでもないドイツを作ろうとして、急場しのぎ的に作ったという意味で日本の自民党と被るところはあるわけで、そうであるなら相応の膿やら恥部やらもあるわけだから、それとの兼ね合いでドイツ国民がどんな判断を下すのか、2017年はドイツにとって結構大変な年になるんじゃないかと思う。
いや、それを情報操作で凌ごうとするのもまたドイツ帝国的ではあるんだが、この、言ってみるなら酷くこなれた不誠実主義がどこまで有効なのかはよくわからない。
■ 関連記事
1917年を見直す時になるのか2017年
西側という宗教 (2)
「ドイツ帝国」が世界を破滅させる 日本人への警告 (文春新書) | |
エマニュエル・ドット 堀 茂樹 | |
文藝春秋 |
諜報・工作―ラインハルト・ゲーレン回顧録 (1973年) | |
赤羽 竜夫 | |
読売新聞社 |
今回の日本は大陸に足がかかってないから、誰もそんなに心配してないと思うわけです。