西日本豪雨の被害者がついに100名を超え、それだけでなく不明者も昨日より増えている。全貌はわかっていないものとみえる。
豪雨被害 112人死亡 3人重体 78人不明
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20180709/k10011524021000.html?utm_int=news_contents_news-main_001
前から書いてるけど、いやもう、天気図と衛星写真を見ながらこれは大変なことになると素人の気象予報でさえそう思えた。特に、豊予海峡から広島方面に雨が続くようになってからは、これってきっととっても大変なことになると私が心配してもどうにもなるもんでもないし、今現在心配な場所に知り合いもいないが、いやしかし、いやしかしとハラハラしてたんだけど、ほんとになんとも言葉を失うような被害が生じてしまいました。
それはそれとして、
広島、岡山って中国山地がらの川が氾濫を繰り返して、それが堆積してできた平野部なわけで、それは逆にいえばそこにあるその川は氾濫する可能性を秘めた川だ、という意味なんだと思うわけですよ。
現在の岡山の平野部は平安時代ぐらいまで、吉備の中海と呼ばれる海だったところで、そこから川からの堆積物が前の島にあたってどんどん堆積の場所が広がっていって、戦国時代に宇喜多が治めていた頃に堤を作ってそこらへんを大規模に干拓していって江戸時代も明治時代もずっと干拓して現在に至る、っていう流れだと思う。今でも宇喜多堤という名前が残ってるはずだし、高梁川の改修工事はいろいろな段階のある大変な工事だったと読んだ。
ここからわかるのは400年か500年で海を干拓しようという気になるほど土砂が堆積していた、川が土砂を流したってことですよね。
吉備国の人間でもないのになんでそんなことを知っているかというと岡山に旅行した時に、宿屋のおじいさんがそれっぽいことを話してくれて、そこで初めて、ほぉ海やったんですかとなって調べたことがあるから。
上の図は、弥生時代のこととしてあるけど、万葉集にも吉備の中海にあたる地域の島について読んだ歌があるそうなので(こっちは岡山の観光の何かで見た)、その時代もそのへんはまだ海と島。
で、なんでこんなことを書いているかというと、前に常総で水害があった時にも書いたと思うけど、ここらへんでこんな雨が降るなんて、みたいなことを言う地元人の言葉を拾ってそのままメディアが載せることは果たして良いのか、との疑問を持っているから。
つまり、人の人生はたいてい100年もないから、自分の人生の中でこれが最高、最低だというのは多くの場合、通史での最高、最低とは違う。
日本中の平野部の多くは沖積平野なわけで、それはすなわち大量の土砂を運ぶ力のある(勾配のある、ともいえるのか)川がたくさんあるということ。
日本の歴史は治水の歴史だとよくいうけど、日本の歴史は洪水の歴史、どうやって洪水の難を免れるのかの歴史だと言った方が注意喚起になるような気もする。
さらに、岩盤の違いがあるから地域ごとに事情が非常に異なる。同じ300ミリでも耐えられるところとそうでないところもある。
関東の平野部みたいに広ければ人口密集地までの距離があるからその間の対応時間も長くなるが、中国山地は瀬戸内海に迫りまくってるから対応時間も短い。
というわけで、自分の川の履歴から言えば、このぐらいはあり得るんだなというのを地元民は知っておくべきだろうと思うわけですよ。そして、メディアもそのぐらいのことをカバーしてあげてもらいたい。まぁ現状では無理そうだが。
さらにいえば、川の合流点とか、くぼ地になってるところ、昔遊水地だったなそこは(多くの場合田んぼか、場合によってはほんと野原のままにしてた)、今はコンクリの道だけど実は湿地だったという場所はだいたいわかるわけで、このへんはなるべく宅地化しないとか、あるいは一生分の思い出を失うような個人の住宅は建てないで、他の施設でも作るとか利用法を考えるというのも必要だと思う。
洪水だというと、対策を、インフラをとなって、それはそれで確かにとても重要なんだけど、そのインフラが万能だというのはやっぱり想定すべきではないと思う。
いざという時のファイナルチョイスを考える頭を失わせる「安心感」の供与は考え物。
長良川が今回ものすごい頑張ってたなと思うし、いわゆる木曽三川を抱える中部地方整備局他の尽力は褒められるべきだと思う。が、しかし、例えばこういうケースを全国に当て嵌めれば万事解決みたいな考え方は危険だと思う。場所が違えば川は違うし、住んでる人の認識と協力体制も重要だと思う。
ローカルに暮らしてグルーバルに考える、みたいな発想を持ちたいわ。
すみません
記事には感服いたしました
わが村落にも『美女木』という地名の場所があります
美人の産地かと思えますがさにあらず
水はけが悪いので少しの雨でもぬかるむので
びしょびしょになるのかと・・・・
古くから『沼』『池』などのさんずいの付く地名や
『窪』や『社』のつく土地には
家を建ててはいけないとききました
こたびの被災者には胸が痛みます
しかし
古の訓えを蔑ろにしてはいけないと自然が言ったのかも・・・
記事に感謝でありました
。
かつて小生が見た映像ですが,雨水の「道」というのでしょうか,大雨の時に土砂災害が起きないように,あるいは被害を最小限にするために,山腹には「道」があるというのです。
雨水がその道を流れて災害が最小限に食い止められるという昔の人々の知恵がそこにあったわけです。ところが宅地造成のために木を伐採したり,山肌を削ったり,建ててはいけないところに住宅を建てたりして,「道」をなくしたのです。山の神が怒っているわけです。
一方で,オスプレイや武器を買わずに災害対策にもっと費用をかけるべきだという意見があります。ご説もっともです。しかしここは,元長野県知事田中康夫氏に学ぶべきではないでしょうか。ダムや堤防の作り方が参考になります。特に「決断」なる紹介話はわれわれをハッとさせます。
宋さんという中国の方のお話だというのですが,堤防を築かずに,水が氾濫する箇所を故意に作っておくのだそうです。
大雨が降ればその箇所一帯は水浸しで氾濫しますので作物は全滅だそうです。しかし翌年は栄養豊富な土砂が堆積しましたので豊作なのだそうです。
翌年も大雨だったら豊作にならないだろうと思うこともないわけではないのですが,「決断」によって氾濫する箇所が決まっていれば,他の地域に被害が及ぶことは少ないだろうというのです。
新自由主義の導入により儲かればいい,金になればいいという宅地造成のための規制緩和・撤廃などが諸悪の根源でしょう。行政の強い指導によってそこには家を建ててはいけないという決断をもする必要があると思います。
木製の真光寺橋が流されている映像を見ましたが,ガードレールも木製にすることを提案されている田中元長野県知事の知恵に学ぶことも必要だと思います。