株式会社 電通ハウジング

社内のイベント、町の情報、個人的な趣味の話など、語ります。
曜日で担当がかわります(*^_^*)

続!会津若松

2008年05月12日 | bu-kunのブログ
夕食は苦戦しましたが、朝食はバイキングなのでもりもり食べました。
会津の味噌漬け(野菜を微塵切りして味噌でつけたらしい)がとてもおいしくて
ごはんをおかわりしちゃいました

しかし、ここでプチ事件が・・・・・
旦那様と楽しく食事をしていると、
私達が食事をしているテーブルに、食べ終わった食器がのったトレーをおもむろに置いていったおじさんがいた。
朝であるが、足取りがあやしい・・・・
私が憤慨していると、旦那様が「昨日のパカパカおじさんじゃないか?」と、一言!!
そうなのだ、昨夜あまりの空腹に耐えられず、喜多方ラーメンを食べて部屋に戻る途中、
廊下をくまなく使用して歩くおじさんが(いわゆる超!!千鳥足・・・)ゆかたの帯を締めようとするが
あまりの泥酔のため、帯が締められないどころか、
浴衣の端と帯の端をもってパカパカしながら千鳥足っていたおじさんであった。
おじさんがパカパカしながら振り向いては大変だと思い、
旦那様の後ろに隠れて(幅は隠れていないという噂が・・・)部屋まで歩いたのだった。
多分、朝もお酒が抜けていなかったのでしょうね・・・
みなさま、お酒はほどほどに・・・・

チェックアウトする時に、フロントに確認すると会津武家屋敷まで送ってくれるとのこと、
本日の予定は、会津武家屋敷→鶴ヶ城→飯盛山であったのでさっそく送ってもらうことに


会津武家屋敷は会津藩家老 西郷頼母(さいごうたのも)邸を復元したもの。




桜が大変美しかった。


表玄関、上級武士だけが通された玄関。
式台玄関ともいい、式台とは挨拶をする所という意味だそうです。


御成り御殿の庭


御成り御殿の書院壱の間
この部屋はお殿様がおいでになった時だけ使用された部屋
ちなみに、この人形は松平容保公(まつだいらいかたもりこう)だそうです。
さらに、大河ドラマの新撰組!のロケ地だったようです。(大河ドラマは見てないけど・・・)


桜のじゅうたんのような通路でした。


てくてく歩いていると、射的を発見である。
200円で矢が4本である。おじさんに、弓の扱い方を教わってスタートである。
なかなか、惜しい感じであるが、的に当たらず、
一服していた旦那様が参戦して、なんと3本目でど真ん中である。
くやしいぶーくんはもう一度チャレンジ!!みごと8本目で的にブチ当てちゃいました!!
1本づつ当てたので、ストラップをいただきました(^_^)



西軍(官軍)が会津城下にせまったときに、
頼母の妻らが自刃した間などは、いつの世も戦争の悲惨さを感じます。

一時間ほどかけてお屋敷を見学した後は、
「はいからさん号」に乗って、鶴ヶ城に向かいます。




鶴ヶ城、天守閣からの眺めです。
天守閣の中は、資料館となっていました。
歴代藩主や江戸時代の会津、戊辰戦争など、
そして、白虎隊十九士の肖像画が飾られ、名前と年齢がかかれていました。
会津藩の軍制は
玄武隊 50歳以上
青龍隊 49歳以下36歳まで
朱雀隊 35歳以下18歳まで
白虎隊 17歳、16歳
で構成されているため、肖像画の少年たちはみな17歳もしくは16歳でした。

城内には、荒城の月碑がありました。
荒城の月と言えば、

春高楼の花の宴、巡る盃影さして
千代の松が枝分け出でし昔の光今いづこ

と、いう滝廉太郎で有名な曲です。

この曲は、滝廉太郎が大分県竹田市の岡城址で曲を構想されたとされ、
作詞は土井晩翠が故郷の宮城県仙台市の青葉城および、
白虎隊の話に感銘をうけ、この鶴ヶ城をモデルにしたとのことである。

確かに、戊辰戦争で砲弾を受けボロボロになり、明治7年には取り壊されてしまったのですよね。
まさしく、”荒城”です。
そして、ふと、このお城の最後の城主が松平氏でなければ白虎隊の悲劇もなく、
新撰組の扱いも変わったのだろうな・・・と、思うぶーくんであった。
しかし、過ぎた歴史は戻らないので、歴史に”If”はないんですよね・・


次の予定は飯盛山、こちらには寄りたい所がいくつかあったので、
”はいからさん号”でレッツGO~!!である。

途中、奴郎ヶ前(やろうがまえ)というバス停があり、ここには新撰組局長 近藤勇の墓があるんですね。
ぶーくんは新撰組については殆んど知らない為、なぜここに近藤勇の墓があるのか疑問でした。
土方歳三が遺骨の一部を埋葬したとかいうことなんですね。

資料をがさがさ見ながらバスに乗っていると、目的地の飯盛山に到着である。


ものすごい、階段でした。
旦那様のブーイングにあい、
仕方が無いので階段横の有料のスロープコンベアに乗りました。



十九士のお墓
お線香をたいて無念を悼みました。

白虎隊の少年たちは6歳から地域ごとに組をつくり武士としての心構えを学んだので、
最後は自刃という選択をしてしまったのですね。
そういえば、『葉隠れ』の中で「武士道とは死ぬことことと見つけたり」
というのを思い出した。


ここは、少年たちが鶴ヶ城が焼けていると勘違いして自刃して果てた場所です。

この時、飯沼少年が助けられ生き延び天命を全うした際に、
遺言として、ほかのみなと一緒に眠りたいとしたが、武士として自刃しきれなかったということに、
賛否両論がでて、みんなとちょっと離れたところにお墓が作られていました。

山を降りる途中にさざえ堂があり、一度見てみたいと思っていた建物です。



一方通行ですれ違うことなく、登って降りてくるというもの、先人の知恵に感嘆しましたが、
いかんせん、心ない人間のいたずら書きには憤懣やるかたない思いであった。

元は、三十三観音が安置されていたとのことで、三十三観音とはあらゆるひとを救い、願いを叶えるということで、
このさざえ堂を一周することで、人々が救われたのではないかと、勝手に考えた。
そのうち、きちんと調べてみよう。

現在は、皇朝二十四孝の絵額が掲げられていた。それは、会津藩道徳教本 というものらしい、
写真を撮ってくればよかったと後悔先に立たず・・・・
絵をみていていろいろ疑問に感じたとこも多かった、
しかも、最近鎌倉に凝っていたぶーくんにとって、気になったのが
白拍子で舞う静御前の絵や、たしか頼朝の絵もあったような・・・神武天皇もあったかな(こっちはかなり曖昧)・・・

徳川家康が、源氏を名乗ったことがあるというくらい、武士の先祖として崇めていたくらいだから、
源氏の絵があってもおかしくはないだろうな、と思ったがこちらも勉強不足です。

さざえ堂を出てさらに降りていくと、

少年たちは、この洞窟をぬけてすぐ隣にある厳島神社の前を通りさざえ堂も通り抜け
飯盛山にのぼったのでしょうね。


白虎隊記念館に入館。
飯盛山を後にしました。

最後は、ちょっとだけ電車までの時間があるので、
野口英世青春館にたちより、下宿していたという部屋を見学です。



新幹線に乗るために、会津若松から郡山にむけて電車に乗り込みました。

そして、新幹線のなかではお約束の駅弁!!



二人なのに、何故三個なのか・・・・・

若い頃に、もっと勉強をしておくのだったと後悔しながら帰路につきました。

おまけ
起き上がり子法師を買いました。
本来は、家族の人数プラス1個を神棚などに飾るそうです。

家に帰って、さっそく倒したら、起き上がりませんでした。
起き上がらない子法師でした・・・チャンチャン
コメント
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