今朝書いた「仏陀の言葉 沐浴について」の続きをもう少し書きます。
まず、「仏陀の言葉」として扱ってますが、本当にゴータマ・シッダッタがそう言ったかどうかは定かではない、という事を断わっておきます。もちろん経典では仏陀が言った事になっていますが、後で作られた話も多いようです。
「沐浴について」は、確かに合理的な意見でもっともなのですが、私としては、心を清めるために沐浴してもよいように思います。
「心を清める」というのは、「体を清める」のとは違って具体的な行動ではあらわせない精神的なものです。
しかし、心を清めようと意識して沐浴をするなら、そして、そうしたことによって精神がよい方向に向かうなら、それは充分に有効なわけです。有効であるという事は、そこには多少なりとも真実があるということです。
合理的な考えは必要ですが、人間、形で表現する事が案外重要なのだと思います。頭で考えるより、具体的に態度で表すほうが精神の変化も起こりやすいのです。
さらに、具体的には態度で表しにくいものを儀礼として行い、それにより精神的な変容を促すということはあらゆる人間社会でよくあることです。
なお、皆さんよく御存知だと思いますが、念のために付け加えておけば、心を清める方法としては瞑想する事がとても有効です。
まず、「仏陀の言葉」として扱ってますが、本当にゴータマ・シッダッタがそう言ったかどうかは定かではない、という事を断わっておきます。もちろん経典では仏陀が言った事になっていますが、後で作られた話も多いようです。
「沐浴について」は、確かに合理的な意見でもっともなのですが、私としては、心を清めるために沐浴してもよいように思います。
「心を清める」というのは、「体を清める」のとは違って具体的な行動ではあらわせない精神的なものです。
しかし、心を清めようと意識して沐浴をするなら、そして、そうしたことによって精神がよい方向に向かうなら、それは充分に有効なわけです。有効であるという事は、そこには多少なりとも真実があるということです。
合理的な考えは必要ですが、人間、形で表現する事が案外重要なのだと思います。頭で考えるより、具体的に態度で表すほうが精神の変化も起こりやすいのです。
さらに、具体的には態度で表しにくいものを儀礼として行い、それにより精神的な変容を促すということはあらゆる人間社会でよくあることです。
なお、皆さんよく御存知だと思いますが、念のために付け加えておけば、心を清める方法としては瞑想する事がとても有効です。