如意樹の木陰

古い記事ではサイババのことが多いです。
2024年に再開しました。

「沐浴について」のつづき

2006-05-09 22:15:10 | Weblog
今朝書いた「仏陀の言葉 沐浴について」の続きをもう少し書きます。
まず、「仏陀の言葉」として扱ってますが、本当にゴータマ・シッダッタがそう言ったかどうかは定かではない、という事を断わっておきます。もちろん経典では仏陀が言った事になっていますが、後で作られた話も多いようです。

「沐浴について」は、確かに合理的な意見でもっともなのですが、私としては、心を清めるために沐浴してもよいように思います。
「心を清める」というのは、「体を清める」のとは違って具体的な行動ではあらわせない精神的なものです。
しかし、心を清めようと意識して沐浴をするなら、そして、そうしたことによって精神がよい方向に向かうなら、それは充分に有効なわけです。有効であるという事は、そこには多少なりとも真実があるということです。

合理的な考えは必要ですが、人間、形で表現する事が案外重要なのだと思います。頭で考えるより、具体的に態度で表すほうが精神の変化も起こりやすいのです。
さらに、具体的には態度で表しにくいものを儀礼として行い、それにより精神的な変容を促すということはあらゆる人間社会でよくあることです。

なお、皆さんよく御存知だと思いますが、念のために付け加えておけば、心を清める方法としては瞑想する事がとても有効です。

仏陀の言葉 沐浴について

2006-05-09 06:28:36 | Weblog
先日ヴァーラーナスィーで沐浴すれば罪が洗い流せるという事を書きました。
これについて、仏陀はどう言っているかというと、

「---前略---
うちに悪しき思いをいだける者、
また罪あやまちをおかせし者の、
悪業のふかきを、河は浄めじ。
---中略---
婆羅門よ、来たってここに浴せ。
生きとし生ける者に安穏を与えよ。
なんじもし妄語をかたらず、
生ける者を害わず、与えられぬ物をとらず、
信を植えて、貪欲ならざれば、
ガヤーに行きて何をかなさん。」(増谷文雄「仏教百話」 ちくま文庫)

この言葉の中で、「ここに浴せ」は、「仏陀の説く教えを学び実践しなさい」ということでしょう。
また「ガヤー」には、当時沐浴場があったのだと思います。

この話の前には、「心が清浄であれば、よい結果が期待できる」という仏陀の話があって、それに対して誰かが「それでは沐浴場に行きますか」と質問したので、それに仏陀が答えているわけです。

では心が清浄でない、つまり心のけがれとは何かというと、「貪り、いかり、迷い、過ちをなして隠す事、吝んで施さぬ事、心の頑ななる事、放逸なる事、驕慢」があげられています。

写真は、ガンジス川の川面から見渡したヴァーラーナスィーのガートです。