如意樹の木陰

古い記事ではサイババのことが多いです。
2024年に再開しました。

宗教者の望み

2006-05-26 20:53:20 | Weblog
昨日、「福音書を読むことにより、イエスの人格そのものに触れる」というような表現をしたが、これは私の言葉ではない。
出所は、イエスの方舟を主催していた千石イエスの言葉である。言葉は多少違ったかもしれないが。
イエスの方舟は、千石イエスと呼ばれる人物が主催する聖書研究会が母体となって、共同生活を始めた「事件」である。
実際には事件というほどのことはなかったと記憶しているが、マスコミが大きく取り上げて話題になった。
この件についての詳しい本も出版されたし、ビートたけし主演でドラマにもなった。
ちなみに、このドラマでビートたけしは俳優としての評価を上げたと思う。

イエスの方舟と××真理教との間にある大きなギャップはいったいどうして生まれてしまったのだろうと、再び思ったりする。
いまだに、松本某という人物に組織を維持運営管理発展させる力がそれほどあったとはどうも思えない。しかし、現実にとてつもない事件を起こしている。
いったい誰が本当に采配を振るっていたのか、単に「集団の狂気の成せるわざ」だけなのだろうか。
あの事件で悲しいと感ずるのは、あの宗教団体に参加した優秀な技術者達が、宗教者として生きる道を選んだはずなのに、それでもまだ優秀な技術者であり続けようとしたバカバカしさだ。
優秀な技術者である事が教団のヒエラルヒーで上に上る手段であるとしても、だいたい宗教者にとってヒエラルヒーの上下なんて意味ないじゃん。
毀誉褒貶を離れて、神と一対一で向き合う事だけが、宗教者の望みだと思うのだけれど。
まあ、いいや。俺も俗物だし。彼らの気持ちもわからないわけじゃない。
ただ、倫理観の欠如は全く理解できない。たぶんそういう集団に入ってしまうと、そうなってしまうのだろうけど。
集団の価値観が優先するために、他の選択肢が見えなってしまうという事。

そういえば、こんな話がどこかに載っていた。
自分の属する集団でその行為が評価されるなら、人を傷つける事さえも人間は平気でやる事が出来る、という実験の話。
電気ショックを与えてそれによる人間の生理的な反応を調べる純粋に学術的な研究という触れ込みで、電圧を上げる装置を被験者に操作させたところ、電気ショックで苦痛を訴えている人を目の前にしながら、それでも多くの人が電圧を上げる操作を自らの意志で続けたそうだ。
目の前の人間の苦痛よりも、学問的な実験という大義のほうが優先してしまうらしい。
自分もそうしてしまいそうな気がするから、怖い。

今日の写真は、みかんの花です。とてもよい香りがします。
このみかんも昨日のピラカンサと同様、ほとんど野鳥の冬場の餌になります。
人間も少しは食べますが、関東北部ではあまりおいしいみかんは出来ません。