私の若い頃には、まだ本屋さんに大衆向けの宗教書というのは、そうたくさんは置いてなかったように思う。
数が増えてきたのは、大川隆法の三部作が出た頃からかもしれない。
大川隆法の三部作は、かなり面白かったと記憶している。とにかくあの当時はとても新鮮に感じた。
といって幸福の科学に入ろうとは思わなかったが。
そういえば、幸福の科学の会員だった会社の先輩に、大川隆法はどんな人かと尋ねたら、「ちょうどお前みたいな感じの人」だと言っていた。
それ以前、宗教関係で何を読んでいたかといえば、キリスト教の新約聖書くらいしかなかったと思う。
それも、どこかの伝道団体が配っていた、赤いビニールの表紙で英文と和訳が見開きの左右に印刷されているような本である。
その本には、知りたい内容毎に、こういった事柄を知りたければここを読みなさいというような索引が付いていたように思う。
以前書いたように、私はいちおう無宗教を装っていたが、つねに悩みや不安を抱えていたわけで、それを解決できる手段が聖書にあるのではないかと思ったりしていたようである。
宗教に接近する理由を考えると、やはり一般的には、悩みや不安を解決したいという事がきっかけなんだと思う。
私にしても、今は「真理をめざして」などと言っているが、最初は少なくともそうだったし、今でも本音はそんなところかもしれない。
しかし、もちろん聖書を読んだところで、不安や悩みを解決してくれるような便利で効果的な御言葉が書かれているわけではない。
では何が福音書に書かれているかといえば、苦悩するナザレのイエスである。
実のところ私が聖書に惹かれるのは、イエスの言葉というよりも、自分の置かれた立場に悩み、周囲の無理解に苦しみ孤独の真っ只中にいて、それでも人を愛し、時に抑えきれない感情をあらわにするイエスという人格である。イエスの教えを追いかけるのもよいが、イエスという人格そのものに触れる事にこそ意味があったように思う。
しかも、新約聖書には、福音書が四つ並んでいる。少しずつ違う四つの福音書を読むことによって、イエスという人物が立体的に見えてくるような気がするところが、それを意図して四つ並べたわけではないのだろうが、効果的に思える。
きょうの写真はピラカンサの花です。秋には赤い実をたくさんつけて、野鳥の餌になります。
数が増えてきたのは、大川隆法の三部作が出た頃からかもしれない。
大川隆法の三部作は、かなり面白かったと記憶している。とにかくあの当時はとても新鮮に感じた。
といって幸福の科学に入ろうとは思わなかったが。
そういえば、幸福の科学の会員だった会社の先輩に、大川隆法はどんな人かと尋ねたら、「ちょうどお前みたいな感じの人」だと言っていた。
それ以前、宗教関係で何を読んでいたかといえば、キリスト教の新約聖書くらいしかなかったと思う。
それも、どこかの伝道団体が配っていた、赤いビニールの表紙で英文と和訳が見開きの左右に印刷されているような本である。
その本には、知りたい内容毎に、こういった事柄を知りたければここを読みなさいというような索引が付いていたように思う。
以前書いたように、私はいちおう無宗教を装っていたが、つねに悩みや不安を抱えていたわけで、それを解決できる手段が聖書にあるのではないかと思ったりしていたようである。
宗教に接近する理由を考えると、やはり一般的には、悩みや不安を解決したいという事がきっかけなんだと思う。
私にしても、今は「真理をめざして」などと言っているが、最初は少なくともそうだったし、今でも本音はそんなところかもしれない。
しかし、もちろん聖書を読んだところで、不安や悩みを解決してくれるような便利で効果的な御言葉が書かれているわけではない。
では何が福音書に書かれているかといえば、苦悩するナザレのイエスである。
実のところ私が聖書に惹かれるのは、イエスの言葉というよりも、自分の置かれた立場に悩み、周囲の無理解に苦しみ孤独の真っ只中にいて、それでも人を愛し、時に抑えきれない感情をあらわにするイエスという人格である。イエスの教えを追いかけるのもよいが、イエスという人格そのものに触れる事にこそ意味があったように思う。
しかも、新約聖書には、福音書が四つ並んでいる。少しずつ違う四つの福音書を読むことによって、イエスという人物が立体的に見えてくるような気がするところが、それを意図して四つ並べたわけではないのだろうが、効果的に思える。
きょうの写真はピラカンサの花です。秋には赤い実をたくさんつけて、野鳥の餌になります。