如意樹の木陰

古い記事ではサイババのことが多いです。
2024年に再開しました。

春の旅(11)

2007-09-01 23:10:30 | インド旅行記
タジ・マハル
カジュラホからアグラに行く飛行機もフライトキャンセルになった。おかげでまた高級ホテルに泊まる事ができた。今度は、タジグループのチャンデラというリゾートホテルである。とても花壇の美しい広い庭を持ったホテルで、カジュラホではナンバーワンのホテルだという。それにしても、インディアン・エアラインの成績?は5回飛んで、フライトキャンセル2回、預かり手荷物忘れ1回という、すごい結果だった。
これでは計画のきっちりした旅行をしている人の場合、たいへんな事になってしまうだろう。事実、イスラエルから来ているという人は、他のグループとのデリーでの待ち合わせができなくなって弱っていた。
私のように、高級ホテルに泊まれて美味しいものが食べられるなどと思っているのは例外である。しかし、例外の私にとっては、こういったホテルで、ときどきノンベジタブルなバイキング式の食事を食べさせていただく事は、天の恵みであった。インドに来てからのにわか菜食主義と不規則な食事で、少しダイエットできたと喜んでいたが、実のところ体力も落ちはじめていた。

翌日も空港で一日待たされた。乗客の多くはドイツ人観光客で、結構陽気である。待たされたあげくにやっと飛行機が滑走路に入って来た時には歓声と拍手が起こった。そして夕日の沈む頃に目的地のアグラに着いた。空港から乗ったタクシーの運転手の名前はアリ。タジ・マハルのある土地だけあって、運転手もモスリムである。
宿泊を予定していた目当てのホテルはタジ・マハルの南門前であったが、満室で断られ、結局東門のそばのホテルに落ち着いた。タジマ・ハルの東門まで歩いて3分、庭がきれいで静かな良い宿だ。タジ・マハルといえば世界有数の観光名所のはずだが、その門前の一等地の宿が1泊120RSで泊まれるのだから、日本人の感覚から言えば嘘のようである。しかも隣の部屋の学生はそれを80RSにまけてもらったそうだから、日本の感覚とは全く違うのである。ただし、この宿の場合、お湯が出ない。2月も末だが、朝晩は思いのほか寒く、冷水のシャワーは少々こたえた。

タジ・マハルは夜明けとともに開門する。ただし朝早い時間帯は特別に100RSの入場料を取られるので、外国人の観光客が多い。入場の際のチェックは厳重である。カバンの中を調べ、金属探知器でチェックする。
正門を入ると、タジ・マハルがあった。
日の出を待ちながら、少しずつ建物の方に歩いてゆくのだが、建物との距離がなかなか縮まらない。それでタジ・マハルがイメージよりはるかに大きいことにはじめて気づく。建物の基壇の上に上がった人間がいかにも小さく見える。
大きいのに大きさを感じさせないのはたぶん玉ねぎ型のドームのせいだろう。そんなに巨大なドームがのっているはずがないという思いがある。
やがて、朝日が昇ると建物の全面を覆う白い大理石が薄っすらとピンク色に染まった。朝日にあたって大理石の壁面がところどころキラッと輝いたりする。インド人のガイドが「ジュエルが光っている」と説明しているのが聞こえた。
建物の基壇に上がってみて初めてわかった事だが、この建物は、右から見ても、後ろから見ても、左から見ても、全て正面と同じように作られているのだ。側面は少し手を抜くとか、裏面は模様を省略するとかしてもよさそうなものだが、そういった仕事の仕方ではなく、徹底的に完璧に作ってある。しかも、内壁外壁にある模様は全て大理石に色とりどりの貴石を埋め込んで作られている。だから300年以上たってもほとんど美しさが変わらない。その象眼細工は非常にすばらしいもので、たとえば花びらの一枚一枚まで、微妙な色の変化を考慮して石を選んで埋め込んである。
タジ・マハルは遠くから見て美しいだけでなく、10センチまで近寄ってしみじみ見ればなお美しいのである。巨大な宝石箱とでもいったらいちばん当たっているかもしれない。ムガール皇帝シャー・ジャハンは最愛の妃の亡骸を納めるために、巨大な宝石箱を作ったのだ。
象眼細工をほどこした大理石の美しさに取り付かれてしまうと、ぜひお土産に欲しくなってしまう。実際、土産物屋をのぞくと、大理石に象眼細工を施した小箱や皿がたくさん並んでいる。しかし、本物のタジ・マハルを見た後ではどうしても高価な物に目がいってしまい困った。

春の旅(10)

2007-09-01 23:03:56 | インド旅行記
カジュラホ
カジュラホへの飛行機は結局フライトキャンセルになった。どうなる事かと思ったが、航空会社がホテルを用意してくれて、いわゆる高級ホテルに泊まる事ができた。ホテルが用意されたのは、この便が国際線扱いだったためだと思う。
キャンセルの飛行機に乗る予定だったのは日本人の団体客が多かった。大人数のグループから、日本人ふたりにインド人の現地ガイドというごく小さいグループまでいくつかの団体旅行が同じ飛行機を使っていた。その中にインドに詳しい人がいてインドの物価の事などを教えてくれた。その人が言うには、せめてヒンディー語で数くらい数えられないとインディアンプライスでは買い物はできない、そうである。もっともな話である。
翌日の昼過ぎにやっと飛行機はバラナシを飛びたち、あっという間にカジュラホに着いた。カジュラホで降りた客の中で日本人は私一人だけだった。団体旅行のコースではカジュラホにはあまり寄らないのか、あるいは飛行機が一日遅れたためにカジュラホはパスになったのかもしれない。短期間の旅行での一日の遅れは、かなりのダメージのはずである。
カジュラホの村は、滞在中ずっとにぎやかだった。村の南にある広場にバザールのテント村ができていて、一日中客寄せをしているのだ。その客寄せのスピーカーの音量はものすごくて、狭い村全体に届くのではないかと思うほどである。私ははじめ、てっきり選挙の街頭宣伝かと思った。宿の屋上から見ると、小型の遊覧車のようなアトラクションも用意されていた。後で見学に行ってみたのだが、会場は埃っぽい広場で、そこに日用品、衣類、装身具、工具、刃物、牛の首に付ける鈴、荷車の車輪、トタン製の水タンクなどが並べられていて、近郷近在から集まって来た人達でごった返していた。日本でも田舎の春祭りの神社の境内などでは今でも農具や竹篭などが売られているが、ちょうどそれと同じ雰囲気である。今年一年の仕事を始めるのに先立って、たとえば鎌を新調し、あるいは牛車の車輪の修理をする、そういったバザールなのである。
カジュラホで宿泊した宿のオーナーは日本語を上手に話す人だった。オーナーの兄弟も日本語が話せた。そんな事もあって日本人の客が多い。博物館のすぐ隣と場所もよい。
このホテルで、ボードガヤからの列車で一緒だった夫婦に再び会った。彼らは列車とバスで移動してきたのだ。バラナスィからサトナーまで列車で約7時間、サトナーからカジュラホまでバスで4時間である。
ホテルの屋上で朝食を食べていると、ホテルのオーナーが話し掛けてきた。一人旅の良いところは、ひとりでぼんやりしていると、現地の人が話し掛けてくる事である。もちろん悪い話も多いので、うかつに対応できないのではあるが。
オーナーは、若いが穏やかな感じの知的な人物である。私が、サイババの所に行った事を話すと、オーナーは「自分はまだ行ったことがないが、一度行ってみたいと思っている。」と言っていた。「しかし、飛行機は高くて使えないから鉄道で行く事になるが、遠いのでたいへんだ。」とも言っていた。確かに、カジュラホからプッタパルティは遠い。たぶん二日では着かないだろう。インド人も日本と同じように合理的、科学的、唯物的な教育を受けているから、一般のインドの人にとってもサイババは異質な存在のようである。しかし、政府の高官までがサイババの所に行っている事も事実で、それでオーナーも興味を持ったようであった。
カジュラホには、ちょうど千年前に栄えた王朝の巨大な石造りの寺院群がある。宗教はヒンドゥーなのだが、バラナスィの寺院の簡素な感じとは全く違って、外壁、内壁とも偶像だらけである。しかもどの像も写実的で肉感的で精巧なものである。インドの博物館にはどこも驚くほどの数の石像があるが、このように外壁一面石像で覆われた寺院が、偶像嫌いのイスラムによって破壊されたのであれば、畑や原っぱの土の中から石像はいくらでも発掘されるわけである。
カジュラホのの寺院には「SURYA」と言う神様が祭られている。優美なすらっとした立ち姿で両手に何やら円盤状のものをひとつずつ掲げている。初めスーリヤという名前から「阿修羅」を連想したが、全くの見当違いで、スーリヤは太陽の神であるらしい。しかし、中性的な感じの立ち姿の像には興福寺の阿修羅像と共通する感じが少しある。ただし、スーリヤの表情の方が明るい感じである。
太陽の神という事からすれば密教の大日如来と同根なのかもしれないが、これも見当違いかもしれない。
有名な男女交合のミトナ像は寺院の外壁に見られる。近代・現代の社会では、性的な表現に関してはタブー視する傾向が強いのだが、少なくとも、かつてこの地にはそれと違った文化が花開いていたらしい。ミトナ像を見ていて、理趣経との関連を思ったりした。
こういった像があるせいかどうか、カジュラホでは新婚らしいふたりずれを多く見かけた。私は寺院のある公園のベンチで休憩していて、新婚さんのカメラのシャッターを切るのを何度か頼まれた。
この公園には猿もいれば野鳥もいる。フープーという名の羽冠をもった鳥は芝生に撒いた水を飲みに来るし、ブーゲンビリアには長いクチバシと黒光りした美しい羽を持ったサンバードが寄ってくる。高い木の枝にはグレーのサイチョウも見かけた。インドは野鳥の宝庫である。
宿から離れた東群の寺院を見に行くために自転車を借りた。メインの寺院群は西群と呼ばれ観光客が多いが、東群の寺院には観光客はあまり行かないらしい。東群にはジャイナ教の寺院もあって、生まれたまんまの姿の石像が涼しげに立っていた。自転車で村の外れの寺院に行くと、川で牛を洗う子供たちや、共同井戸で洗濯したり水浴びしたりする光景も見られた。

春の旅(9)

2007-09-01 19:09:12 | インド旅行記
アスィーガート
ホテルを替える事にする。ダサシュワメードはどうにもにぎやかすぎるのだ。それだけでなく、街を歩けばすぐに「マリファナ、はっぱ、女」と声がかかる。もう少し静かなところでのんびりしたかった。それで、ガンジス川の上流の方にホテルを探した。そしてアッスィーガートにあるきれいなホテルが気にいったので、そこに移る事にした。
このホテルのあるアッスィーガートは、今までいたダサシュワメードガートに比べるとはるかに閑散としている。しかし環境は悪くない。そのためか、このホテルには外人の長期滞在者が多くて、テラスや屋上でのんびりしている姿を見かけた。屋上からはバラナシの町もガンジス川もはるかかなたまで続くガートも一望にできるし、食堂の食事もまずまずである。
この辺りにはヒンドゥー教の寺院が多い。ヒンドゥー教の寺院は、どれも石や煉瓦造りの建物で、その中に石造りの像が祭られている。像には黒い石でできたものと、白大理石でできたものがあって、どれも花で飾られていた。有名な寺院には僧侶と思われる人がいて、小銭を出すと額に粉を付けてくれる。ちなみにドルガー寺院では赤い粉だった。信仰の集まっている寺院の前には花を売る店があるので、そこで花を買って具えたりもしてみた。節操がないような気もするが、私は汎神論者だから別にかまわない。
それに、ヒンドゥー教の寺院の雰囲気はどことなく日本の寺院に似ていて、祭られている神々の姿も日本の密教の寺院のそれとなにか通じるものがあるようである。
寺院を探して歩いているうちに、ラームナガル城と呼ばれる、かつてマハラジャの住んでいた城に向かう道に出てしまったので、そのままガンジス川の浮橋を歩いて渡ってみた。浮橋は、大きな鉄製のタンクを並べてその上に鉄板を敷いたもので、川幅は2Kmくらいある。ガンジス川を歩いて渡る事が嬉しくて行きは歩いたが、帰りは疲れて乗合のオートリクシャを使った。
バラナスィにはサイクルリクシャが多い。リクシャマンには英語が通じない人もいるが、行き先だけわかれば問題はない。料金は10RSから20RSくらいの間である。サイクルリクシャに乗ってみると座席が高いのでオートリクシャよりはずっと気持ちいい。それに、歩くのに比べればはるかに速い。ただし欠点は上り坂にさしかかった時乗っているのが申し訳なくなることだ。三輪車だから変速機でも付いていれば楽なのだろうけれど、もちろんそんな便利なものは付いているはずもない。

ホテルは満室である。ホテルの玄関まで来たものの、断られて帰ってゆく日本人の姿もある。日本人の女の子が来た時にはホテルのオーナーに、何とかならないかと聞いてみた。「おまえの部屋に泊めるならそれでもいい。」と言われが、それもできないので、彼女達の意向を聞いてダサシュワメードガートまで送っていった。彼女たちは、次の日にはもう他の町に移動するのだそうで、ガートの近くに泊まりたいと言っていたのだ。まだ昼間だったからどこかに宿を見つけたと思う。

ヒンドゥー大学にある博物館では、学生のストライキのために閉館という事もあった。最初にこの博物館に行った時、風邪のひきはじめで頭が痛かったので、また来ればいいと思って簡単に見て帰ったのだが、翌日は祭日で休館だった。大学が休みの時は博物館も休みらしいのである。それでそのまた翌日、その日はバラナスィを発つ日だったのだが、朝再び行ってみると、今度はストライキで閉館だったのである。博物館の入り口にはサービスマンが集まって来ているのだが門が開かず、そのうち責任者らしい人が来て、今日は閉館という事になったようだった。この博物館には、ニューデリーの国立博物館とはまた違った展示があり、よく見たかったのに残念だった。展示の中には、ニコラス・レーリッヒの絵もあった。この人はロシア生まれで、元々は東洋学者なのだが、絵には独特の引き込まれるような魅力があった。

アガスティア
エンジンの止まりそうなオートリクシャに乗ってしまい、やっとの事で空港に着いたが、カジュラホ行きの飛行機はなかなか来ない。空港のレストランにコーヒーを飲みに行くと、プッタパルティーのサイババのアシュラムで見かけた人がいたので話し込む。彼はこれからボンベイに行き、サイババの元に戻るのだという。彼の話の中にアガスティアの葉が出てきた。なんでも、アシュラムの人に紹介してもらったアガスティアの館に出かけて、自分の『葉』を探してもらったのだそうだ。自分しか知らない身内の名前など当てられて、信じたと言っていた。アガスティアの館の人のほかに、現地語を英語に訳す通訳と英語を日本語に訳す通訳と、2人の通訳が付いたというから本格的である。
アガスティアの葉については、信じている人の書いた本と、信じていない人の書いた本を読んだ事がある。こういった現象は自分で確認しなければ、真偽のほどはわからない。
真偽のほどはわからないが、あまり関らない方が良いような気がする。なぜなら、自分の個人的な未来を知るという事は、それが良い未来であれ悪い未来であれ、また、真実であれ詐欺であれ、あまり本人のためにならないような気がするのだ。あたるも八卦あたらぬも八卦、では雑誌の星占いと変わらないわけで、アガスティアの葉の意味が薄れてしまうし、100%真実だと信じ込んだ瞬間にその予言にがんじがらめに縛られる事になってしまう。
たとえば、雑誌の星占いなど当てにならないと思いつつも、それが結果として何ヶ月か当たり続けると逆にそれに縛られてしまい、あまり良くない星占いが出ていると憂うつになったりするものである。まして、アガスティアの葉などで、悲惨な未来を告げられた日には、目の前が真っ暗になって、実際に悲惨になる前から精神的にぼろぼろになってしまうかもしれない。
確かに、未来予知の能力は、誰でもが多かれ少なかれ持っている能力である。それは、誰でも、一度や二度は夢に未来を見てしまった経験を持っている事でも明らかである。しかし、遠い過去の聖人であるアガスティアという人が、この時代に館に来る人をあらかじめ知っていて、その人の人生を書き残している、というのは話ができ過ぎているように思う。もし仮にアガスティアの葉が実在するにしても、100人が見てもらって、当人の葉が見つかるのはその内のひとりくらいなのではないかと思う。しかしそれでは営利目的の営業活動にはならないわけで、結局、他の99人には詐欺を働く事になる。

もし、自分の未来を知りたいのなら、自分の夢を注意深く観察して記録するのが一番だろう。
夢に未来を見る事を予知夢という。予知夢が実現する時の感覚は、そのシーンの情報を過去に送っているような感じ、である。これでは、当たり前すぎて笑われてしまいそうなのだが、強いて表現すればそんな感じなのである。あるいは「デジャブ」と呼ばれている「かつてどこかで見たような、懐かしい感じ」が、予知夢の実現した時の感じに近いのではないかとも思う。デジャブも予知夢も同じ現象を別の立場で表現しているのかもしれない。予知夢では夢を覚えているが、デジャブでは夢を覚えていないのだ。
予知夢は未来の自分と眠っている自分との間のテレパシーという仮説もある。
テレパシーは距離や時間の前後に関りなく伝達するようで、しかも、いわゆる送信機と受信機の波長が合えば誰とでも交信できるのである。前世の記憶などもこれで説明できるし、透視も説明できる。しかし、それは単に説明できるというだけの事であって、事実はそんな説明のはるかかなたにあると考えた方がよい。ましてや、サイババの起こす「名刺代わり」の物質化現象などは仮説さえ立てられない。

超能力といわれる現象は、この時空が現代の科学レベルでは説明のしようもないものだという事を気付かせてくれ、また、自分たちの存在の意味を考え直さざるを得ない状況を与えてくれるからこそ意義があるのだろう。

**** 写真は、アッスィーガートから見たガンジス川 ****

春の旅(8)

2007-09-01 16:39:43 | インド旅行記
シバラトリ
ムガールサライ駅からオートリクシャでバラナスィの町に帰ってくると、もう祭りが始まっていた。今日は2月16日。シバラトリの前の晩である。オートリクシャはホテルのあるダサシュワメードの近くまでも入る事ができず、だいぶん遠くで降ろされた。そこまで一緒だった日本人夫婦は荷物があるのでサイクルリクシャを拾った。サイクルリクシャはダサシュワメードまで入れるのである。私は適当に歩いてホテルに向かった。途中、ブラスバンドを先頭にした山車の幾組かに出会った。その中にはゾウのいるグループもあった。
ホテルの部屋は3階で、壁ひとつ隔てた隣はレストランのキッチンである。キッチンは夜の12時過ぎまで人の声や食器の音がする。電話予約をした時158RSの部屋と185RSの部屋があるがどちらにするかと聞かれ、158RSにした結果である。少しうるさいのだが、レストランの人と顔見知りになったので、退屈はしなかった。キッチンは階段で直接2階のレストランとつながっているらしい。

朝、日の出前にガンジス川のガートに行った。ガートとは沐浴場の事である。ガンジス川は、乾季で水量が少ないのだろうが、その水面まで石積みの階段が続いている。水面の近くまで降りてみると、ガートの石段は、上流にも下流にもはるか彼方まで続いていて、その石段の上の城壁のような赤茶けた壁に窓が並んでいた。
ここでは、あらゆる人達が皆沐浴をしている。そのためにここにやって来たのだろう。それを船の上から見物している外国人観光客にはおかまいなしに、男の人はパンツ一枚になって川に入り、女の人はサリーを着たままで川に入って、頭まで全部川の中に沈めている。
しかし、自分も川に入ろうという気にはどうしてもならなかった。
私もボートに乗って川の上に出ると、ガートは朝日を受けて赤く染まっていた。弓形に見渡す限り10Kmも続く石造りのガートは、インド人にとってこの場所がどれほど特別な場所なのかを雄弁に語っているようだった。この町は、仏陀が生きた頃にはすでに大きな都市であり、すでに三千年の歴史のある都なのだそうだ。

ガートから上がって、川に沿った路地に入ってみる。薄暗い狭い石畳の路地である。その狭い路地を、人間のほかに牛がゆっくりと歩いている。狭い場所で牛とすれ違うのはちょっと勇気が必要だった。そんな路地を歩くのは、ちょうど悪夢に出てくる迷宮をさまよっているような感じで、だんだん重苦しい気分になってきて広い通りに逃げ出した。

ホテルから少し行った所ににぎやかそうな路地があったので入ってみた。ヴィシュワナート寺院への参道らしい。女性用の装身具を売る店がたくさんあり、神様の絵を売る店やサリーを売る店、花を売る店などが並んでいた。それらを見ながら路地を奥に入ってゆくと人ごみになり前に進めなくなった。それでも並んでいればそのうちに通り抜けられるのかと思っていたが、実はそうではなく、この列は寺院に参拝する人の列だったのだ。見れば、ほとんどの人が手に手に花や水の入った器を持っていた。この寺院にはヒンドゥー教徒以外入れないとガイドブックに書いてあったが、せっかく並んだのでそのまま行ってみる事にする。
そのうち、丸太でできた木の柵によって列の流れは誘導され、柵の外には警官らしい制服の人が並んでいた。列の人に言われてサンダルを脱ぎ、その辺りに置いておく。本来は列に並ぶ前に花屋にでも預けるのが正しかったらしい。当然の事ながらこのサンダルは回収できなかった。寺院の境内に入るとさらにたくさんの警官がずらっと並んでいた。その中には、青い迷彩服の婦人の一隊もいた。あまりに物々しい警戒に驚いてしまう。テレビカメラも並んでいる。人と人の間隔を空けると警官から声が飛ぶので、どの人も前の人との間隔を10センチも空けずに詰めて歩く。
そんな状況だから、寺院をゆっくり見学するゆとりなど全くない。
人の流れに押されながら本堂らしいところに入り、見よう見まねでお金をあげて額に白い粉を付けてもらっって出てくるのがやっとだった。
後でよくよく考えれば、シバ神を祭るシバラトリーの日に、インドでも指折りのシバ神を祭る寺院に、心の準備もせずにのこのこ行ったのだから、こうなるのが当然だったわけだ。しかし、よい経験をしたとは思う。

夜、ダサシュワメード通りを幾つもの山車が通ってゆくのをホテルのベランダから見た。それぞれの山車は発電機を積んだ荷車を従えていて、その電気で隊列の人が担いだネオンサインを点灯させたり、ラウドスピーカーを大音量で鳴らしたりしていた。それぞれのグループは音楽も違い音量も違ったが、それらがベランダからの距離や風向きによって微妙に混ざり合って変化した。かなりうるさくてけばけばしいのだが、なぜか懐かしい気もするのが不思議であった。

サルナート
シバラトリーの翌日、サルナートに行った。中国式にいえば「鹿野苑」。仏陀が初めて、自らの悟りの内容を他の修行者たちに説いた場所である。当時のサルナートは、修行者の集まる場所であったらしい。仏陀はここに来るために、ボードガヤから200Km以上の道のりを着の身着のままの姿で托鉢をしながら歩いたのだろう。それはまるで、新発見をした学者がそれを理解してくれる仲間を求めて歩くようなものにも思える。私の少ない知識の範囲での仏陀という人物像には、あまり神秘的な匂いがなく、すぐれた哲学者のようなイメージが強い。
サルナートには、6世紀に立てられたという巨大なストーパがある。このストーパはボードガヤのストーパに比べるとずっとシンプルな形である。そのストーパの周囲は広い遺跡公園になっていて、公園の奥の柵の中には鹿が飼われていた。
その鹿に与える餌らしいものを売る子供達がいて、寄ってくる。ひとりで公園をブラブラしている外国人は、彼らにとって近づきやすいターゲットなのだろう。
サルナートのストーパにもチベット人の巡礼がいた。私も彼らと一緒にストーパの周りを何回か巡り、ローソクを供えた。

春の旅(7)

2007-09-01 13:08:12 | インド旅行記
バラナスィ
飛行機は3時間遅れてデリーに着いた。深夜になってしまったので、仕方なく、インドに来て最初に泊まったホテルに入った。
翌日、これからの旅に具えて買い物をする。ひとつは南京錠。安宿にはぜひ必要な物である。日本からも持ってきたのだが、それはインドで一般に使われている物に比べると、随分小さいものである。聞いた話では、ドロボーさんはカギを開けて入るのではなく、カギをバールのようなもので壊して入るのだそうで、したがってカギは丈夫な事が第一らしい。それで大きいものを買った。
それから、ホッチキス。「地球の歩き方」は便利なのだが、街を歩きながら見るには大きい。それに日本人をカモにしている人にとっては良い目印でもあるだろう。さいわい、この本は必要なページだけを簡単に外す事ができるので、それをホッチキスで留めて使う事にした。これを二つ折りにするとポケットに入り便利だ。
午後の飛行機でバラナスィに行くので、あらかじめ宿に電話予約をしておいた。バラナスィは日本でいえば、京都みたいな大きな観光地らしいから、現地に行ってホテルを探すのはたいへんそうな気がしたのだ。
インド旅行では、宿の予約はほとんど必要ない。安宿の場合には自分の目で確かめてから、宿を決めるのが基本だと思う。しかし、夜に見知らぬ町で宿を捜すのはあまり楽しい事ではない。まあ、一泊と割り切れば、たいがいの宿なら一晩過ごすことくらいは出来るわけだが。

飛行機は少し遅れてバラナスィに着いた。このフライトだけは、エコノミーが取れなくて、ビジネスクラスだったので、少しばかりリッチな気分を楽しんでしまった。さて、リムジンバスの切符を買って、預かり手荷物の出てくるはずのコンベアの前で待っていたが、私の荷物が出て来ない。一大事である。私以外にもやはり荷物が出て来ない人達がいて騒ぎはじめた。どうやら、デリーの空港に預かり手荷物を一山残して来たらしい。結局、次の便で運ばれるまで、さらに3時間空港で待たされた。こういったトラブルになると私の英語では間に合わないのだが、何とか気持ちは通じるらしい。
荷物の到着を待って空港に残ったのは10人足らずである。残っているのは個人旅行の人だけらしい。
空港の薄暗い到着ロビーでブラブラしていると、団体旅行で来ている日本の老人に話し掛けられた。この人は、これから出発するところだという。彼は若い頃、世界一周をしたのだそうだ。1ドル360円の時代で、外貨の持ち出しが厳しく制限されていた時代の旅行は相当にたいへんだったらしい。それにひきかえ、今は日本人にとって最も海外旅行のしやすい時代である。

結局、ホテルに着いたのは午後9時過ぎ。宿の予約をしておいた効果があったというものだ。しかし、泊まるのはどちらにしろ安宿である。薄暗い路地を入ってゆく時には、この先に本当にホテルがあるのだろうかと思ったものだった。
バラナスィには8泊する予定である。滞在期間が長いのは飛行機の都合による。しかし、バラナスィにそれほど見るべきところがあるとは思えない。
ガイドブックによれば、この周辺には仏教遺跡がたくさんあるらしい。この辺りは仏陀が生きて暮らした場所なのである。たとえば仏陀の生まれたルンピニーはネパール領だが距離にすれば300Km足らず、悟りを開いたボードガヤは250Km、祇園精舎のあったサヘート・マヘートも300Km、沙羅双樹の下で入滅したクシーナガルは200Km。仏陀はずいぶん広い範囲を歩いたものだと思う。しかし現在、交通の便のあまり良くない所が多い。インドではブッダイズムは衰退しているというから訪れる人も少ないのだろう。その中で、乗り換えなしで行けて列車の本数も多いボードガヤに行く事にする。

ボードガヤ
翌朝、荷物をホテルに預け、1泊か2泊のつもりでボードガヤに出かけた。
乗車駅のムガールサライは、バラナスィからガンジス川を渡って30分くらい行った所にある。バラナスィにも駅はあるのだが、デリーとカルカッタを結ぶ幹線はガンジス川の対岸を通っているためバラナスィを通る列車の数は少ないようだ。ムガールサライへ行く途中の国道は、これも幹線の国道らしく大型のトラックが多く、かなりの渋滞である。オートリクシャはその渋滞の車の脇をすり抜けて器用に走って行く。したがってタクシーよりはずっと速い。ただしオートリクシャの欠点はクッションがないに等しい事で、路面の凹凸が直に伝わってくる。そのため、振り落とされないように片手で荷物を抱え、もう一方の手でフレームの鉄パイプを握り締める事になる。

インドの鉄道のシステムはよくわからない。ガイドブックを読むと基本的には2等と1等とエアコンクラスがあって、長距離列車が多いから、各等級に寝台が絡んでくる。急行列車と鈍行では運賃自体が違うので、日本のようにとりあえず乗車券を買って後で必要に応じて急行券を買うというような事はできない。さらにその外に特急料金が必要な列車もある。
今回、私の場合は昼間に2等の自由席に乗るだけなので予約の必要はないらしい。切符の窓口に乗りたい列車名と目的の駅名をメモ書きにして出すと2等の切符と特急券をくれた。ガヤまで204Km52RS、特急券5RSである。それから駅の掲示板で列車の到着ホームを調べて、ホームに出る。ホームには時刻表などは掲示されていないからなんとなく不安なのだが、駅員らしい人の姿はホームに見当たらない。
インドの列車は、日本のように正確に時刻通りには運行されていないようである。それはわかっているつもりである。それでも、到着時刻を5分過ぎ10分過ぎ、あげくに別の列車がホームに入って来たりすると、不安が怒りに変わってきたりする。
列車に書いてある行き先表示はインドの文字のため読めないが、車両に列車ナンバーが必ず書いてあるので、乗ろうとする列車のナンバーを調べておけば間違う事はないのだが。
乗ろうとする列車が入って来たが、2等車の車両は数が少なくとても混んでいるので、2等寝台の車両に乗り込む。昼の間はこの車両にも乗れるらしい。
乗降口付近に立って景色を眺めた。ドアは手動のタイプで開けておく事ができる。ただし、落ちれば大怪我をする事になるから気を付けた方がよいとは思う。線路の両側は一面の畑である。所々畑が黄色く染まっているのは、からし菜の花らしい。途中少し雨が降ったが、雨に遭ったのは今回の旅行ではこの一回だけだった。

ボードガヤはガヤ駅から12Kmの所にある村である。小さな村だが、この村のマハーボーディ寺院には壮大で美しい仏塔が建っていた。靴を脱いで境内に入ると、境内は周囲よりも数メートル低くなっていて、大きな仏塔のまわりには小さな仏塔が幾つも並んでおり、チベット人と思われる僧侶や巡礼が多かった。インドの仏教徒らしい白いサリーを着た婦人のグループもいた。小さな塔と塔の間に板を敷いてチベット式のお祈り五体投地をしているチベット人も数人いたが、その中には白人の女性も一人混じっていた。
仏陀が悟りを開いた菩提樹(の何代目か?)は仏塔の西側にあって、大きく枝を広げていた。その下に金剛座があり、この辺りに線香やロウソクがたくさん供えられている。私も門前で買った線香をあげ、それから余った線香を仏塔の周りにはめ込まれた仏像に一本ずつあげていった。全部の線香を供え終わると、なんとなく満足した気分になった。それから仏塔の周囲をチベット人の巡礼と共に何回も廻ってみた。巡礼は小さな声でお経を唱えていた。以前奈良の長谷寺に行った時、同じような光景を見た事があったのを思い出した。
翌朝は日の出前に出かけ、チベット人の巡礼と大塔の周りを再び廻った。寺院の南に沐浴池があって、その側の木にビーイーターが群れていた。日本語では蜂食い鳥とでも呼ぶのだろうか。緑色の尾羽の2本だけが長く伸びていて、それをなびかせながら飛ぶ小型の美しい鳥である。仏塔の上の方にはインコが巣を作っているらしく、周囲の樹木と仏塔との間を行き来していた。

境内に、ビニール袋に入れた小魚を売る少年がいた。ちょうど金魚掬いの金魚を入れるくらいの袋に金魚くらいの大きさの小魚が入っている。言葉は分からないが、たぶん、これを沐浴池にはなしてやれば功徳がつめるとでも言っているのだろうか。いろいろ商売を考えるものである。物乞いもいる。寺院の周囲は、石造りの柵で囲まれているのだが、その柵の間から手を出して物乞いする老婆がいて、一周してそこを通るたびに「ババ、ババ。」とあわれげな声をあげる。私は耳が聞こえないような、目が見えないような態度でその前を通り過ぎねばならなかった。インドを旅するうちにそういった態度がだんだん身に付く。インドにいると、物乞いさえひとつの仕事なのではないかと思えてくる。物乞いは物乞いを演じ、旅人は旅人を演じるということか。

帰りにガヤ駅に行くと切符売場にはたくさんの人が並んでいた。ライフルを持った警官が物々しく立っている。私は、インドの警官と軍人の区別が付かないので警官と呼んでいるがあるいは軍人かもしれない。そんな中で、いくつか窓口をたらい回しされたが、結局切符が手に入らないので、あきらめて、駅の構内にあるインフォメーションの事務所に聞いてみる。インフォメーッションは、とても親切である。「ストライキだけれどもたぶんそのうちに動き始める。」と言って、すぐに切符を買ってきてくれた。こういった事務所は主に外国人向けらしく、相談に対応した事を記録するために名前を書く事になっている。列車が動き出すまでそこに荷物を置かせてもらって食事を食べに行ったりした。様子を見るために構内の渡線橋に上がってみると、駅員らしい人の一団が駅の外れの線路の上でシュプレヒコールを上げていた。
ガヤ駅のホームであった日本人の夫婦は、もう何ヶ月も旅を続けていると言っていた。私を見て「チベッタンの巡礼かと思った。」と言う。確かに私はそんな身なりであった。
「旅をしていると、リュックひとつの荷物があれば、それで充分生活できるのに、日本だとどうしてあんなにたくさんの物が必要なんだろう。」とも言っていて、なるほどと思った。
列車が動き出したのは3時過ぎだった。走る列車の乗降口に立って沈む夕日を見た。からし菜の花で薄っすらと黄色く色づいた見渡す限りの畑に霞がかかり、その向こうの林にオレンジ色の夕日が沈んでいった。
車両の乗降口の側の荷物置き場に腰掛けてぼんやりしていたら、頭をコンと叩かれた。検札らしい。荷物置き場に座っているのは、別に悪い事ではないのだろうが、こういった場所に座っているのは、頭を叩かれても仕方のない種類の人達が多いらしい。だから、車掌は日本人とわかると怪訝そうな顔をした。
一緒に乗った日本人の夫婦はさきほどからずっと、少し酔った風のインド人の男性に大声で話し掛けられて閉口していた。何を言っているのか私には全くわからなかったが、後で聞くと、その男は民族主義者らしいとの事であった。

春の旅(6)

2007-09-01 10:38:25 | インド旅行記
プッタパルティー
4時間あまり走って、バスはプッタパルティーの村に入った。にぎやかな町である。商店街の狭い道を通り、ピンク色のはでなゴプラムの脇を通ってゆっくりと進んで行く。ゴプラムとは、ヒンドゥー教の神様の彫刻のたくさん載っている塔のような門の事である。
そのゴプラムの辺りから、信者と思われる人々が延々と列を作って並んでいる。バスはその人の列の横を抜けて、もう少し先の、倉庫のような建物に取り囲まれた公園に到着した。聞いてみると、ゴプラムからここまで全部がアシュラムなのだと言う。そして並んでいた人達は、アシュラムに宿泊するための登録の順番を待っているのだと言う。ものすごい人数である。
それで、私はまた考えを変えて、アシュラムの外に宿を捜す事にした。
年配の信者の人にアシュラムの外のホテルをふたつ教えてもらってから、荷物を担いでバスが来た道を引き返した。アシュラム内の通りに面して並ぶ大きなアパートのような建物はどれも信者のための宿泊施設だし、先ほどバスが着いたあたりの倉庫のような建物も宿泊施設だと言う。壮大なアシュラムである。
通用門の手前には、昨日、先にプッタパルティに入っていた霊能力者の人達もいて、陣内さんが声をかけてくれた。
通用門を出ると、ホテルの客引きが寄って来た。しかし、客引きに付いては行かず、教えてもらったホテルへも向かわず、通用門の前にある新しそうなホテルに入ってみる。ホテルの看板を出しているわけでもなく、フロントにも人はいない。それで改装中かと思ったが、いちおう営業しているらしい。出てきた人に部屋を見たいと言うとエレベータに乗せられたが、少し動いたところで止まってしまった。まだ調整中みたいな感じである。しかし、階段は石造りの立派なものだし、トイレもシャワーも本格的な作りである。300RSのこの部屋に泊まる事にする。もっといい部屋があると案内されたのは、アシュラムを見渡す事のできるベランダのある部屋で1泊600RSだという。アシュラムを上から見下ろして悦に入る気にはなれない。
荷物をホテルに置いて、早々にアシュラムに行ってみる。アシュラムに入る通用門はガネーシャゲートと呼ばれている。入ってすぐのところにガネーシャの像が祭ってあるのだ。
シバの息子でありゾウの頭を持った神様のガネーシャは、とても人気のある神様らしい。そのガネーシャの前では、インドの人達が、ちょうど日本人が御地蔵さんにするのと同じように花をあげたりろうそくを点したりして祈っていた。
ダルシャンの行われるマンディールはガネーシャの像のすぐ隣である。マンディールの建物はホワイトフィールドに比べて格段に豪華である。大きさは、正確ではないが野球のグランドくらいはあると思う。マンディールの奥にはサイババの住居があり、住居の建物の前にはシンボルの塔が立っている。事務所や食堂はマンディールの前の道路の両側にある。
アシュラム全体の雰囲気は大学の構内のような感じである。
アシュラムの外には、ホテルと土産物屋や食堂が並び、いわゆる門前町である。道路脇では物売りが野菜や果物の店を広げている。
通用門から出てきた若い日本人と少し話す。彼はアシュラム内のシェッドに泊まっているという。シェッドというのは倉庫のような広い場所で、そこに大人数で寝泊まりしているのだ。他に数人で使用する鍵のかかる部屋もあるが、「かえって、シェッドの方が気楽で良い。」と彼は言っていた。

手紙
プッタパルティーでのダルシャンもホワイトフィールドでのそれと同じである。しかし、会場は2倍くらい広く、舞台も立派。
サイババの動きもこちらの方が生き生きしているように見える。時々、茶目っ気を見せて、会場を笑わせたりさえする。
こちらでは、インタビューと呼ばれるサイババとの個別面談も毎回3組くらい受けている。これは、サイババがダルシャンの会場で自ら指名するのであるが、ほとんどはグループ単位で呼ばれていた。日本人も結構呼ばれているらしく、中には何回も呼ばれている人もいるという。
サイババが信者の中を歩くと、手紙がたくさん差し出される。サイババがその手紙を全て受け取るかというと、そうではない。受け取るべきものだけを受け取る。無理をして渡そうとして、ポイっと投げ返される人もいる。あらかじめ手紙の内容を知っているといわれる所以である。したがって、手紙を受け取らないという事もまた充分にメッセージを含んでいるわけで、なぜ受け取らなかったのかを自分で考えればよいのである。自分でもう一度考える方がずっと効果的な場合が多いはずである。そういう私も、実は手紙を渡せなかった一人である。
とにかく、彼は魅力的である。毎日朝夕の計2回、1回あたり30分くらいはサイババを見ているわけだが、ダルシャンの時刻が近づくと、必ず出かけてしまう。

アシュラムの南側の小高い丘の上に「冥想の木」と呼ばれる良い木陰を作る木があって、その名の通り、そこにはいつも冥想をしたり本を読んだりしている人がいる。2月の半ば、その木はピンポン玉くらいのオレンジ色の実をたくさん付けていた。実の感じは無花果に似ていて、それを目当てに鳥が集まって来ていた。

アシュラムの中は、塀の外の世界に比べれば別世界である。華やいだ感じさえする。神の化身が今この場所にいるとすれば、それは当然の事なのだろう。そういえば、ショールをなびかせて歩く女性たちは、天女に見えない事もない。

ある晩、アシュラムの食堂で食事をしていると、停電で照明が消えた。停電はそれほど珍しい事ではないが、さてどうなる事かと思っていると、暗闇の中で『オーム』の唱和が始まった。沸き上がるように食堂いっぱいに響く『オーム』の声は、灯りが戻ると、スっと静まり、それから、何事もなかったように食事が続いた。

もし、その後の旅の航空券を買っていなかったら、ここにこのまま、もうしばらくとどまっていただろうと思うが、プッタパルティに来て4日目の朝、バスでバンガロールに向かった。座席指定のバスは、5時間かかるバンガロールまで42RS。150円足らずである。
バンガロールで時間があったので、帰国のフライトのリコンファームを済ませておく。

**** 写真は、アシュラムの外の通りの風景 ****

春の旅(5)

2007-09-01 04:25:41 | インド旅行記
時刻表
翌日は、鉄道でバンガロールに行くことにする。
ホワイトフィールドの駅に行ってみると、列車は遅れているようで、予定よりひとつ前の列車に乗る事ができた。2時間くらい遅れているらしい。
乗車した各駅停車の車両は座席がベンチのような木製で窓には鉄の格子がはまっている。しかし広くてゆったりしている。
同じホームから乗った学生と、わかったようなわからないような話をする。会話がよくわからないのは私の英語力に問題があるからである。インド人は一般に英語が上手である。だいたい、私の英語力で一人旅をしている事の方に無理があるのに違いない。
しかし幸いなことに、インドでの日本の評判はそれほど悪くはないらしい。学生さんはとても親切で「あなたの降りる駅はこの次ですよ。」と教えてくれて、ひとつ手前の駅で降りていった。列車は、なぜかゆっくりと走っている。それで、1時間近くかかってバンガロールシティー駅に着いた。大きな駅である。
まず、駅の売店で時刻表を買った。その時刻表は、インドの全国版で飛行機の時刻表まで付いているという優れものである。駅名の索引が付いているので調べやすい。この時刻表のおかげで、この後北インドを旅する時には切符の購入が楽になった。
それから、オートリクシャで、インディアンエアラインに行く。
オートリクシャは交差点で停止すると必ずエンジンを止める。これが排気ガスを減らすためなのか、ガソリンを節約するためなのかは知らない。しかし、ガソリンはその他の品物の物価の安さに比べるとかなり割高らしい。
ブッキングオフィスでバラナスィからカジュラポ、カジュラホからアグラの予約をする。バラナスィからカジュラホはキャンセル待ちだがウエイティングナンバーが21番だから多分大丈夫だろうとの事。
とにかくこれで今回の旅行の主要なルートは決まってしまったわけである。結局飛行機を多用した大名旅行になってしまったわけだが、とりあえずこれでひと安心?という気持ちになった。
駅に戻ってバスターミナルを歩いてみる。サイババは近いうちにプッタパルティに戻るという。もともとサイババの本拠地はプッタパルティなのである。そして、今いるホワイトフィールドは別邸のようなものらしい。
プッタパルティへはバンガロールからバスで5時間くらいかかる。飛行場はあるが鉄道はないらしい。結局プッタパルティに行くにはバスかタクシーを使うしかないのだが、相当の人数が一斉に移動する、それこそ大移動になるので、タクシーを確保する事も難しいし、バスにも乗れるかどうかわからないという。それでバスターミナルの下見に来たのだ。移動の段になって、重いザックを背負って右往左往するのはなるべく避けたい。広いバスターミナルをあちこち見て歩いて、バススタンドのナンバーや発車時刻をメモしてから、また列車でホワイトフィールドに帰った。結局、一日がかりであった。

借りている部屋のオーナーがちょくちょく部屋に来る。どうやらこの建物の全部の部屋を貸してしまっているので、自分の落ち着く場所がないらしい。それで、夏に具えて窓に虫除けの網を張る準備をしたり、余った布団を置かせてくれと持ってきたり、「インドはどうですか、サイババはどうですか。」と話し掛けてくる。たいへんによい人なのだが、少しうるさく感じる事もある。

バス移動
高山さんはゴアに出発し、彼の連れてきた陣内さんは本格的な霊能者と共に先にプッタパルティに出発した。
2月9日になると、アシュラムの周辺にタクシーが目立ちはじめた。信者が移動を始めたのだ。様子を見に、夕暮れ頃アシュラムに行ってみる。涼しい風の吹くアシュラムの庭には夕涼みをする人もいれば、バジャンを歌うグループもある。食堂の前で野菜を刻んでいる日本の若者もいる。
庭の一角でバジャンを歌っていた日本人のグループが解散しはじめたので、そちらに行って話を聞く。
どうやらサイババは明日出発するらしい。
そのグループがバスをチャーターしてプッタパルティーへ移動する事は以前に聞いていたので、席が空いていないか尋ねてみると、ラッキーな事にキャンセルがあってひとつだけ空きがあると言う。これこそ、まさにサイババの導くところと思い、ありがたく便乗させていただく事にする。

その翌日ダルシャンが終わると、アシュラムの内も外もあわただしく人が動きはじめ騒然としてきた。私が、部屋に戻り荷物を担いでアシュラム内の集合場所に行くと、ずいぶん日本人が集まっており、荷物の量も相当である。荷物には、スーツケースやリュックのほかに布団や炊事道具、食器などの日用品が多い。たぶんこれらの中には個人の所有物のほかに日本人グループで管理しているものもあるのではないかと思う。日本に帰る時バケツや布団を持って帰るわけにはいかない。
人と車でいっぱいになったアシュラム前の道路にバスを止めさせて、荷物を運び込むと、プッタパルティに向けて出発した。屋根の上の荷台はもちろん、座席の間の通路まで荷物で埋まっている。
バスは日本の観光バスと大差ない、新しいバスである。50人ほどの乗客はほとんど日本人で、その半数くらいは女性である。
彼らが精神的な高みをめざしている事は、雰囲気から充分に伝わってくる。私のように中途半端な人間とはあきらかに違う。
バスの中で次から次ぎに歌われる歌は、バジャンの日本語版なのだろうか、初めて聞く歌ばかりであったが、どれも耳になじむ良い歌であった。私は、とてもおだやかで幸せな気持ちになっていた。そして、プッタパルティに着いたら、私もアシュラムでこの人達と暮らしてみようかとも思った。
バスは、空いた道を、牛に引かせた荷車を追い越し、トラックを追い越し、かなりのスピードで走った。道はプッタパルティに向かって少しずつ下っていた。道路のまわりには、樹木の少ない岩山のような土地が続いていた。