如意樹の木陰

古い記事ではサイババのことが多いです。
2024年に再開しました。

秋の旅(6)

2007-09-28 06:45:22 | インド旅行記
ダルシャン
翌日からダルシャンに通い始めた。ダルシャンに使っている会場は拡張工事をしていて、その工事の騒音があり、会場はほこりっぽい。ダルシャンに集中するにはあまり良い環境ではない。気温も2月の時より高いような気がする。あるいは、湿度が高いのかもしれない。朝のダルシャンでは涼しいのだが、午後のダルシャンは暑い。人混みの中に座るとむっとしてくる。その中で2時間以上もあぐらをかいているのは疲れる。
春に来たときには気づかなかったが、プッタパルティーのアシュラムの北側には大きな湖が広がっている。

春に来た時に比べて、サイババはずいぶん痩せて見える。指など非常に細い。あまりヴィブーティを出さない。両手に手紙を持ったりしている。両手に手紙を持っていてはヴィブーティを出せないのだが、ヴィブーティを出すのがたいへんで両手で手紙を持っているのだろうか。サイババは少し猫背にみえる。老いと体力の衰えのようなものを感じてしまった。
しかし、その数日後には見違えるほど元気になっていたから、あるいは、私の心の持ち方でそのように見えただけなのかもしれない。

プッタパルティに来て4日目に宿を移った。今度の宿は、路地を少し入ったところにあり、3階の部屋は、風通しも日当たりも良い。眺めも悪くない。
アシュラム内の宿泊設備は良く整備されており、収容人数も大きいから、アシュラムの外にあるホテルの数はそれほど多くない。アシュラムの外は修行には適さない場所であるというのが基本的な考え方である。せっかくアシュラムまで来ながら、外に宿泊する事はない。それに、アシュラムの外は良くない想念の波動が多いといわれる。
良くない想念の波動と云われてもピンとこないが、たぶん、霊的な場を波動と呼んでいるのだろう。確かに、経験的にそれはある程度事実である。環境に影響されない人はいない。

しかし、サイババと一対一で向き合おうとした時に、アシュラム内の人間関係が重荷になる場合もあるかもしれないと考えたりもする。
もっとも私の場合は、タバコ好きで、しかも人間嫌いだから、なかなかアシュラムの中では暮らせないのだが。

サイババの発する霊的なエネルギーは非常に強力であるが、受け取る側に心の準備ができていない場合には、何も感じられないかもしれない。また、エネルギーを受け取ったにしても、その後でおしゃべりなどしてしまうと、定着する前に蒸発してしまうかもしれない。それゆえダルシャンの前には、心を静かに整えておくべきだし、ダルシャンの後には、静かな場所で余韻を味わうことが大切だといわれる。
 
サイババの起こす奇跡の特徴は、ヴィブーティや指輪を空中から取り出す物質化現象である。
それにしても、このような物質化と呼ばれる奇跡は理解しがたい。霊的な事柄や、精神的な事柄は、自身の過去の経験からある程度類推できても、そういった物理的なエネルギーを持たない精神的なものと、それこそ物理的エネルギーの固まりである物質とでは、全く別物に思えるのである。
たとえば、光を見たり音を聞いたりすると判断するのは脳であるから、光や音はそこに電磁波や音波がなくても脳がそのように機能すれば見えたり聞こえたりするかもしれない。しかし、物質そのものはもっと客観的な存在であるように思われる。精神が物質を作り出すとか、瞬間移動させると云う事は、全く理解を超えた現象である。

物質世界と精神世界を比べたとき、順序としてまず先に物質世界があり、それから精神世界ができてきたように私は考えていたが、そうではないのかもしれない。あるいはもっと基本的に、精神世界対物質世界という図式が間違っているのかもしれない。

一般の人間の場合でも、まず何かしらビジョンがあって、それを物質世界で実現してゆく。つまり、まず精神があってそれが物質世界を作ってゆくわけで、これはサイババの物質化と同じ流れだ。しかし通常は、物理法則によって説明できるような過程を経て作ってゆく。その過程が省略されているように見えるから奇跡なのだが、考えてみれば物理法則とは、自分自身を納得させるための方便に過ぎないともいえる。あるいは、我々には理解できない別の原理・別の法則・別の手段を使っているのかもしれない。

超能力はある霊的レベルに達すると副次的に備わってくる能力だという人もいるが、そうともいえないだろう。そういった能力と霊的なレベル?には多少の相関関係があるかもしれないが、せいぜいそのくらいだと思う。ちなみに人間以外の動物にも、それに似た能力はあるらしい。

この宇宙の全ては、神の現れであるから、石もタンポポも蟻もネコも全て神の現れであり、それは、個別にそれぞれが神の現れであると同時に、全体として神の現れである。人間の作った機械ですら神の現れなのである。人間は、人工物とそれ以外の『自然』を分けて考えがちだが、両者に区別などないのである。
人類が地上最悪の生物『狂った猿』で終わらないためにも、自らが神の現れであること、そして、あらゆるものが神の現れであることを、謙虚に受け止める事が必要なのだろう。自分が何者であるかを知らないと云うことが、私たちの最大の問題かもしれないのである。

銀行で両替の順番を待っていると、白人のおばあさんがやって来た。痩せた長身で年齢は80を越えているだろうか。肌は老いて、太い血管が腕にのたくっている。鼻は高く、あざやかな口紅をつけている。少し先のとんがった麦わら帽子の先を紅のスカーフでくるんで、濃い緑色のサリーを少し引きずっている。これでホウキを持っていれば完璧に魔法使いのおばあさんであるが、あいにくホウキは持っていない。
魔女というと悪役のイメージがあるが、魔法使いのおばあさんと云えばそれほどでもない。このおばあさんも悪役ではないし、醜悪でもない。威厳を感じさせる穏やかな雰囲気を持っていた。
神、天使、魔女、悪魔、これらの言葉から浮かぶイメージは、私の場合、過去に見た映画やテレビマンガによって作られてしまっているところが大部分である。実物を見たことがない(と思い込んでいる?)のだから、致し方ない。しかし、そう云ったイメージが逆に自分の思考を制限してしまっていると思うこともある。たとえば、『悪魔』と云う言葉から連想するイメージは、洋画に出てくる恐ろしい姿をした人間に近い形の生き物である。
しかし、本来、悪魔という存在は、自分の外部にあるものではなく、自分自身の心の中に存在しているのである。それは、自分の弱い心を強調し、利己的な欲望を正当化し、そそのかす心である。そして、悪魔が自分の中に住んでいるように、神も自分の中に住んでいるらしい。では、悪魔と神が対立関係で存在しているかと考えてみるとそうでもない。なぜなら、悪魔でさえ神の創造物であるはずだから。
現代人は、『神は死んだ』と宣言したものの、悪魔の方は放置したがために、悪魔に振り回されているのかもしれない。人間の中の悪は、人間が普通に考えるよりもはるかに巧妙に、悪魔としての目的を達しようと画策する。ところが現代人は、自分のうちに住む悪魔の存在を正しく認識していないために、それをコントロールすることができないらしい。
まあ、こういった擬人化した表現をあまり使いすぎると、事実から遠ざかってゆくような感じはするが。

このプッタパルティーの町は同じ地上にありながら、ほかと違った独特の雰囲気を持っていると感じられることがある。少し誇張して表現すれば、時空にできた特異な空間とでも云いたい感じだ。もちろんこう云った感じは、微妙・精妙・わずかな雰囲気の違いである。
だから、そんなことはない、単に外国人が多く集まる新興宗教の教祖のいるインドのちっぽけな田舎町、と一言で片づけることもできるだろう。
しかし、見ようによっては、ここに集まってきている人達は、サイババという神の化身に引き寄せられて集う諸天、菩薩、天使、預言者、そして様々な神々、それについて歩く眷属達、のようでもある。
そう云った諸々の魅力的な、あるいは妖しげな人々が集まって、なにやら意味ありげに過ごしている。不思議な感じの町である。